第二十七回 箕面のちいさな宝石屋(2011~2015)
2015年04月23日
公私共に、だいぶ現在に近づいてきました(笑)
もう少しお付き合いを。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2012)】
第二十五回 【2つの大切なこと(2012~2015)】
第二十六回 【念願の一部復帰(2011)】
=======================================================================
以前にもブログで書いたことがあるかもしれませんが・・・(汗)
このお店を始めて、
試行錯誤の中で色々な取り組みをしてきました。
功を奏すこともあれば、失敗することもあります。
でもそれがたとえ失敗だったとしても、
それは間違いなく今の糧になってるはず。
そう信じたいものです。
さて、その取り組みの中で、
功を奏したこと。
その中で一番大きかったことと思うのが、
「箕面のちいさな宝石屋」
というお店の名前。
今となっては、自分の中にしっくりきていますが、
最初は迷いました。
だいたい宝石店といえば、
英文字のかっこのいいお店やブランドが多いですよね。
でも、ちょっと求めてるものと違う・・
じゃあ、自分の名前で
「越野宝石店」
全然、違う・・(笑)いつの時代やねん。
一番に親近感がわくようなお店にしたいという思いがありました。
そして宝石屋さんだってすぐにわかる名前にしたかった。
たまに格好のいい名前でもいったい何屋かわからない・・
そんなお店ってありませんか?
そして、世の中の宝石屋とは一線画したお店へのチャレンジでもありました。
一般的な宝石屋のような作りでもなければ、
たくさんの宝石が並んでるわけではなく・・。
スペースもちいさく、入ればどーんとソファーが並んでいる。。
こんな宝石屋、今までにないと思います。
そして、こんなちっぽけな宝石屋ってありなんかな・・・
正直、不安がいっぱいありました。
「いざ、お店に来てみると、えらいちっちゃいお店やん」
そんな風に思われないかな?
じゃあ、頭からお店の名前を通して伝えよう!!(←開き直り)
かつ、極力わかりやすい名前に、
親しみをもたれる名前に。
「箕面のちいさな宝石屋」
シンプルに考え、等身大のお店を表現できる名前。
そう思って、この屋号にしました。
実際、お客さまがこの屋号をどう思われてるかは定かではないですが、
お店の来店動機に
「お店の名前が親しみがあってよかった」
そんなお声がチラホラと。
そして、インターネットを検索してる方が、
どんな検索ワードを使って、お店のホームページに来てくれてるかがわかるんですよね。(アクセス解析って言いますが)
今になっては1日、数件の方が、
「ちいさな宝石屋」
「箕面 ちいさい宝石屋」
「ちいさな宝石屋さん」
など、明らかにお店の名前をイメージして探してくださる人がいることを知ることができます。
「箕面のちいさな宝石屋です!!」
と電話で出るのもすっかり慣れました。
噛むこともほとんどありません(笑)
これからもこの
「箕面のちいさな宝石屋」
をたくさんの人に知っていただけるようにがんばります。
もう少しお付き合いを。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2012)】
第二十五回 【2つの大切なこと(2012~2015)】
第二十六回 【念願の一部復帰(2011)】
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以前にもブログで書いたことがあるかもしれませんが・・・(汗)
このお店を始めて、
試行錯誤の中で色々な取り組みをしてきました。
功を奏すこともあれば、失敗することもあります。
でもそれがたとえ失敗だったとしても、
それは間違いなく今の糧になってるはず。
そう信じたいものです。
さて、その取り組みの中で、
功を奏したこと。
その中で一番大きかったことと思うのが、
「箕面のちいさな宝石屋」
というお店の名前。
今となっては、自分の中にしっくりきていますが、
最初は迷いました。
だいたい宝石店といえば、
英文字のかっこのいいお店やブランドが多いですよね。
でも、ちょっと求めてるものと違う・・
じゃあ、自分の名前で
「越野宝石店」
全然、違う・・(笑)いつの時代やねん。
一番に親近感がわくようなお店にしたいという思いがありました。
そして宝石屋さんだってすぐにわかる名前にしたかった。
たまに格好のいい名前でもいったい何屋かわからない・・
そんなお店ってありませんか?
そして、世の中の宝石屋とは一線画したお店へのチャレンジでもありました。
一般的な宝石屋のような作りでもなければ、
たくさんの宝石が並んでるわけではなく・・。
スペースもちいさく、入ればどーんとソファーが並んでいる。。
こんな宝石屋、今までにないと思います。
そして、こんなちっぽけな宝石屋ってありなんかな・・・
正直、不安がいっぱいありました。
「いざ、お店に来てみると、えらいちっちゃいお店やん」
そんな風に思われないかな?
じゃあ、頭からお店の名前を通して伝えよう!!(←開き直り)
かつ、極力わかりやすい名前に、
親しみをもたれる名前に。
「箕面のちいさな宝石屋」
シンプルに考え、等身大のお店を表現できる名前。
そう思って、この屋号にしました。
実際、お客さまがこの屋号をどう思われてるかは定かではないですが、
お店の来店動機に
「お店の名前が親しみがあってよかった」
そんなお声がチラホラと。
そして、インターネットを検索してる方が、
どんな検索ワードを使って、お店のホームページに来てくれてるかがわかるんですよね。(アクセス解析って言いますが)
今になっては1日、数件の方が、
「ちいさな宝石屋」
「箕面 ちいさい宝石屋」
「ちいさな宝石屋さん」
など、明らかにお店の名前をイメージして探してくださる人がいることを知ることができます。
「箕面のちいさな宝石屋です!!」
と電話で出るのもすっかり慣れました。
噛むこともほとんどありません(笑)
これからもこの
「箕面のちいさな宝石屋」
をたくさんの人に知っていただけるようにがんばります。
第二十六回 念願の一部復帰(2011)
2015年04月20日
久しぶりにブルーインズのことを。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2012)】
第二十五回 【2つの大切なこと(2012~2015)】
=======================================================================
20年の現役生活を終え、
コーチとしてブルーインズに関わらせてもらうことになりました。
たいした技術も知恵もない自分が何ができるのか・・
ただ1つ言えるのは、
現役引退ホヤホヤ
だったので、
「選手の近い位置にいる」
そんなコーチだったので、
より選手の意見をすいあげ、
チームの戦術に反映させる。
そのことを意識して取り組んでいきました。
長く在籍するベテラン選手の意見は
もちろんのこと。
ブルーインズには大学時代に実績のある
優秀な新卒の選手も入部してきます。
自分とは一回りも年が違う子達です・・・。
そんな若手選手とも極力コミュニケーションを取って、
1年目からでも意見が言える。
そんな空気感を出すことに注力をしていきました。
とはいえ2部リーグにどっぷり浸かってしまったのは事実で、
なかなか思うようにもいかない日が続きました。
そして、同級生の満村君がチームのキャプテンに就任した2011年。
ついに念願の入れ替え戦の昇格を果たすことに。
リーグ初戦に敗退し、
チームにはマイナスなムードが蔓延しました。
でも満村キャプテン含め選手が発奮し、チームは僅差の勝利を重ねていきました。
もしかしたらこれを「開き直りのチカラ」
と言うのかもしれませんね。
ついにチームは入れ替え戦への挑戦権を獲得しました。
相手は宿敵、富士ゼロックスjstars
Xリーグでの最下位と言えど、
実力あるチームと戦ってきたチームの底力は侮れません。
実際、2部リーグのどのチームよりも
高いポテンシャルと練習量を誇るチームです。
ゲーム序盤。一進一退の攻防が繰り返され、
僅差のリードで後半を迎えました。
後半もこう着状態が続く中で、
長くチームに在籍する、アスリート河合健吾のゴールラインを背にしたディフェンス。
数年間の思いを表現する渾身のタックルでした。
あのシーンは今でも深く脳裏に焼きついてます。
なかなか届かなかった一部復帰。
長く低迷する時期に、
たくさんの仲間が色々な事情でチームを離れていきました。
でも、この1部復帰の瞬間にチームに関われたこと。
とても幸せでした。
スタンドにはたくさんの戦友が集まってました。
みんなと共に喜びを分かち合うことができて最高の瞬間でした。
正直、一部に復帰することが自分の最終目標となり、
次のことなんて全く考えることができませんでした。。
Xリーグに復帰したブルーインズ。
でもチームにとってはいばらの道が待ち構えてました。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2012)】
第二十五回 【2つの大切なこと(2012~2015)】
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20年の現役生活を終え、
コーチとしてブルーインズに関わらせてもらうことになりました。
たいした技術も知恵もない自分が何ができるのか・・
ただ1つ言えるのは、
現役引退ホヤホヤ
だったので、
「選手の近い位置にいる」
そんなコーチだったので、
より選手の意見をすいあげ、
チームの戦術に反映させる。
そのことを意識して取り組んでいきました。
長く在籍するベテラン選手の意見は
もちろんのこと。
ブルーインズには大学時代に実績のある
優秀な新卒の選手も入部してきます。
自分とは一回りも年が違う子達です・・・。
そんな若手選手とも極力コミュニケーションを取って、
1年目からでも意見が言える。
そんな空気感を出すことに注力をしていきました。
とはいえ2部リーグにどっぷり浸かってしまったのは事実で、
なかなか思うようにもいかない日が続きました。
そして、同級生の満村君がチームのキャプテンに就任した2011年。
ついに念願の入れ替え戦の昇格を果たすことに。
リーグ初戦に敗退し、
チームにはマイナスなムードが蔓延しました。
でも満村キャプテン含め選手が発奮し、チームは僅差の勝利を重ねていきました。
もしかしたらこれを「開き直りのチカラ」
と言うのかもしれませんね。
ついにチームは入れ替え戦への挑戦権を獲得しました。
相手は宿敵、富士ゼロックスjstars
Xリーグでの最下位と言えど、
実力あるチームと戦ってきたチームの底力は侮れません。
実際、2部リーグのどのチームよりも
高いポテンシャルと練習量を誇るチームです。
ゲーム序盤。一進一退の攻防が繰り返され、
僅差のリードで後半を迎えました。
後半もこう着状態が続く中で、
長くチームに在籍する、アスリート河合健吾のゴールラインを背にしたディフェンス。
数年間の思いを表現する渾身のタックルでした。
あのシーンは今でも深く脳裏に焼きついてます。
なかなか届かなかった一部復帰。
長く低迷する時期に、
たくさんの仲間が色々な事情でチームを離れていきました。
でも、この1部復帰の瞬間にチームに関われたこと。
とても幸せでした。
スタンドにはたくさんの戦友が集まってました。
みんなと共に喜びを分かち合うことができて最高の瞬間でした。
正直、一部に復帰することが自分の最終目標となり、
次のことなんて全く考えることができませんでした。。
Xリーグに復帰したブルーインズ。
でもチームにとってはいばらの道が待ち構えてました。
社会人生活の振り返り25 【2つの大切なこと(2012~2015)】
2015年04月16日
過去の記事がたまってきました・・。
うーんとしたの方から、最新記事が始まります(笑)
よろしくお願いします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2002)】
=======================================================================
試行錯誤が続くお店の運営。
いつになっても売上の不安は拭えないけど、
お客さまから喜びの声をお聞かせいただく度に
勇気をもらい、
そして前進する力が沸いてきます。
それは、オープン当時でも、今でもまったく同じ。
お店を運営していく中で、大切に思ってることが2つあります。
あっ、大切なことは山ほどあるけど、その中で大事な大事な2つです。
1つめ
「お店の存在を知ってもらうこと」
極めて当たり前のことですが、意外とコレが難しいとこなんですね。
梅田の駅前の一等地。
そんなところに店があったとしても、100%人に認知してもらえるかと
いえばそうでもないですよね・・。
ローカルな街。
ローカルといったら怒られるかな・・。
しかも、その町の中でも駅前のような一等地ではなく、
人目につきにくい住宅街の一角。
しかもビルの2階。
うーん、条件は決してよくない・・。
でも、今の時代。
そんな立地条件でも知ってもらうためのツールは
山ほどあります。
インターネット
ミニコミ誌
ポスティングチラシ
ラジオ
動画
とりあえず出来るツールを色々と試して、
お店のことを多くの方に知ってもらう。
いや、厳密に言えば、
全国の方に知ってもらう必要はなく、
この北摂地域の方に、こんなお店があるんだよ~。
知ってもらうことが何よりも大切。
そう思ってます。
2つめ
「ご利用いただいたお客さまとの関係性を続けること」
こんなちいさなお店の存在を見つけていただき、
そしてご利用いただいたお客さま。
本当にありがたく、ご縁なのかもしれません。
ジュエリーのリフォーム。
そうそうご利用いただく頻度は多くはない職種です。
だけど、一度きりにならない関係に、
「また何かあった際には・・・」
つまりは忘れられないように。
そして何かあったときには思い出してもらえるように。
そう考え、3~4ヵ月に1度の頻度で
「ニュースレター」
という手作り新聞のようなものをお送りしています。
内容は、ジュエリーにまつわるお話なんかも掲載しますが、
大半は自分のプライベートなこと、そして家族のこと。
もちろんお送りした全ての方に読んでいただいてるとも思ってないのですが、
中には、とても楽しみにしていただいてる方がいたり
内容に対してコメントをいただく方もいたり。
それこそ、「忘れられないように・・」
そんな目的は果たせてるのかな・・って思い今でも続けてます。
偉そうに持論をつらつら並べてきましたが、
これが正解とは思ってません。
世の中、もっと効率的にお店を良くしていく方法は
いくらでもあると思います。
もし何かアイデアがあれば、
ぜひ教えを乞いたいと思ってます。
でも、上にあげた
2つの大切なこと。
「お店の存在を知ってもらうこと」
「ご利用いただいたお客さまとの関係性を続けること」
これはお店をこれからもずっと続けていく中では
欠かせないことかなと思ってます。
うーんとしたの方から、最新記事が始まります(笑)
よろしくお願いします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
第二十三回 【植物園のようなお店(2011)】
第二十四回 【アットホームな宝石店(2002)】
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試行錯誤が続くお店の運営。
いつになっても売上の不安は拭えないけど、
お客さまから喜びの声をお聞かせいただく度に
勇気をもらい、
そして前進する力が沸いてきます。
それは、オープン当時でも、今でもまったく同じ。
お店を運営していく中で、大切に思ってることが2つあります。
あっ、大切なことは山ほどあるけど、その中で大事な大事な2つです。
1つめ
「お店の存在を知ってもらうこと」
極めて当たり前のことですが、意外とコレが難しいとこなんですね。
梅田の駅前の一等地。
そんなところに店があったとしても、100%人に認知してもらえるかと
いえばそうでもないですよね・・。
ローカルな街。
ローカルといったら怒られるかな・・。
しかも、その町の中でも駅前のような一等地ではなく、
人目につきにくい住宅街の一角。
しかもビルの2階。
うーん、条件は決してよくない・・。
でも、今の時代。
そんな立地条件でも知ってもらうためのツールは
山ほどあります。
インターネット
ミニコミ誌
ポスティングチラシ
ラジオ
動画
とりあえず出来るツールを色々と試して、
お店のことを多くの方に知ってもらう。
いや、厳密に言えば、
全国の方に知ってもらう必要はなく、
この北摂地域の方に、こんなお店があるんだよ~。
知ってもらうことが何よりも大切。
そう思ってます。
2つめ
「ご利用いただいたお客さまとの関係性を続けること」
こんなちいさなお店の存在を見つけていただき、
そしてご利用いただいたお客さま。
本当にありがたく、ご縁なのかもしれません。
ジュエリーのリフォーム。
そうそうご利用いただく頻度は多くはない職種です。
だけど、一度きりにならない関係に、
「また何かあった際には・・・」
つまりは忘れられないように。
そして何かあったときには思い出してもらえるように。
そう考え、3~4ヵ月に1度の頻度で
「ニュースレター」
という手作り新聞のようなものをお送りしています。
内容は、ジュエリーにまつわるお話なんかも掲載しますが、
大半は自分のプライベートなこと、そして家族のこと。
もちろんお送りした全ての方に読んでいただいてるとも思ってないのですが、
中には、とても楽しみにしていただいてる方がいたり
内容に対してコメントをいただく方もいたり。
それこそ、「忘れられないように・・」
そんな目的は果たせてるのかな・・って思い今でも続けてます。
偉そうに持論をつらつら並べてきましたが、
これが正解とは思ってません。
世の中、もっと効率的にお店を良くしていく方法は
いくらでもあると思います。
もし何かアイデアがあれば、
ぜひ教えを乞いたいと思ってます。
でも、上にあげた
2つの大切なこと。
「お店の存在を知ってもらうこと」
「ご利用いただいたお客さまとの関係性を続けること」
これはお店をこれからもずっと続けていく中では
欠かせないことかなと思ってます。
社会人生活の振り返り 23 【植物園のようなお店(2011)】
2015年04月07日
久々のコラム更新です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
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崖っぷちに追い込まれて、
ついに決断をした、「お店のオープン」
お店の場所は、箕面の「船場地区」
奇しくも、親父の創業の地が大阪の南船場。
これも不思議な縁かもしれませんね、
箕面の船場は繊維団地として言われることが多いですが、
僕のお店の場所は、船場の中でも完全な住宅街にひっそり佇む商業ビル。
デザイナービルということもあって、お越しいただいた方はご存知かと思いますが、
ちょっとオシャレな作りで、女性向けの商売にはいいかなって感じがします。
また僕が選んだ一室は、以前、エクステって言うんですか?
女性のまつげを綺麗にする?サロンがあったということで、
とても綺麗な状態で、特に内装をすることもないという好条件でした。
家賃も駅前の一等地に比べて、うーんと安い。
当然、崖っぷちでお金もなかったので、背伸びはできない。
自分のできる範囲で・・。
お店をオープンする当初、
今でもお世話になってる会計事務所の方がこう言いました。
「家賃を抑えた分、その抑えた分をお店の知名度をあげる広告宣伝費に使っていきましょう」
今でも初めてご来店される方が道に迷ってしまいそうな場所にあるお店。
「あっ、あんなところに新しいお店ができてる!」
そんなお店そのものが持つ発信力には期待できません・・・。
「お店を知ってもらう」
これがお店を始める上での最初の命題となりました。
・ 従来、運営してた、お店のホームページをリニューアルしました。
・ 地域紙「シティライフ」さんへの広告出稿
これらに取り組み、いよいよお店のオープン。
不安 90 %
楽しみ 10%
そんな状況だったと思います。
ただ、その不安を喜びに変えてくれる出来事がありました。
あっ、お客さまがたくさんきた??
残念ながら違います(笑)
オープン前日ぐらいから、
大きな植物を抱えた、宅配便の方が次々とやってきました。
そう、ほんとたくさんの方から、
お店のお祝いのお花や観葉植物が届きました。
これはほんと大げさではなく、ちいさな店内が植物園みたいになりましたよ(笑)
中にはわざわざご自身で届けていただいた方もいました。
これには本当に感激しましたし、勇気をもらうことが出来ました。
今こうやってブログを書いてても、ちょっと目頭が熱くなってきます。
皆さんの想いが後押ししてくれました。
不安を期待に変えてもらうことが出来ました。
今でもその喜びは忘れません。
これからも忘れることはないでしょう。
お店のオープン初日。
地域紙をご覧になったお客さまがご来店されました。
本当に涙がでるほど嬉しかったです。
オープン当初にご来店いただいたお客さまから、
こんなお言葉をいただいたことを覚えてます。
まさしく植物園状態のお店を見て、
「たくさんの人に応援されてるんですね」
そう声をかけていただきました。
それが信頼とつながり、ご依頼いただくことがありました。
開店して最初の月が無事に終了しました。
まだまだ売上も少なく、前途多難ではありましたが、
「このようなお店は今までになかったので、
きっとお客さまに喜んでもらえると思いますよ」
お客さまからも激励をしてもらい、
とても前向きな気持ちを持てるようになりました。
そう考えると、
今までの僕の人生、
人に助けられっぱなしの人生のような気がしてなりません。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
第二十二回 【最後の挑戦(2011)】
=======================================================================
崖っぷちに追い込まれて、
ついに決断をした、「お店のオープン」
お店の場所は、箕面の「船場地区」
奇しくも、親父の創業の地が大阪の南船場。
これも不思議な縁かもしれませんね、
箕面の船場は繊維団地として言われることが多いですが、
僕のお店の場所は、船場の中でも完全な住宅街にひっそり佇む商業ビル。
デザイナービルということもあって、お越しいただいた方はご存知かと思いますが、
ちょっとオシャレな作りで、女性向けの商売にはいいかなって感じがします。
また僕が選んだ一室は、以前、エクステって言うんですか?
女性のまつげを綺麗にする?サロンがあったということで、
とても綺麗な状態で、特に内装をすることもないという好条件でした。
家賃も駅前の一等地に比べて、うーんと安い。
当然、崖っぷちでお金もなかったので、背伸びはできない。
自分のできる範囲で・・。
お店をオープンする当初、
今でもお世話になってる会計事務所の方がこう言いました。
「家賃を抑えた分、その抑えた分をお店の知名度をあげる広告宣伝費に使っていきましょう」
今でも初めてご来店される方が道に迷ってしまいそうな場所にあるお店。
「あっ、あんなところに新しいお店ができてる!」
そんなお店そのものが持つ発信力には期待できません・・・。
「お店を知ってもらう」
これがお店を始める上での最初の命題となりました。
・ 従来、運営してた、お店のホームページをリニューアルしました。
・ 地域紙「シティライフ」さんへの広告出稿
これらに取り組み、いよいよお店のオープン。
不安 90 %
楽しみ 10%
そんな状況だったと思います。
ただ、その不安を喜びに変えてくれる出来事がありました。
あっ、お客さまがたくさんきた??
残念ながら違います(笑)
オープン前日ぐらいから、
大きな植物を抱えた、宅配便の方が次々とやってきました。
そう、ほんとたくさんの方から、
お店のお祝いのお花や観葉植物が届きました。
これはほんと大げさではなく、ちいさな店内が植物園みたいになりましたよ(笑)
中にはわざわざご自身で届けていただいた方もいました。
これには本当に感激しましたし、勇気をもらうことが出来ました。
今こうやってブログを書いてても、ちょっと目頭が熱くなってきます。
皆さんの想いが後押ししてくれました。
不安を期待に変えてもらうことが出来ました。
今でもその喜びは忘れません。
これからも忘れることはないでしょう。
お店のオープン初日。
地域紙をご覧になったお客さまがご来店されました。
本当に涙がでるほど嬉しかったです。
オープン当初にご来店いただいたお客さまから、
こんなお言葉をいただいたことを覚えてます。
まさしく植物園状態のお店を見て、
「たくさんの人に応援されてるんですね」
そう声をかけていただきました。
それが信頼とつながり、ご依頼いただくことがありました。
開店して最初の月が無事に終了しました。
まだまだ売上も少なく、前途多難ではありましたが、
「このようなお店は今までになかったので、
きっとお客さまに喜んでもらえると思いますよ」
お客さまからも激励をしてもらい、
とても前向きな気持ちを持てるようになりました。
そう考えると、
今までの僕の人生、
人に助けられっぱなしの人生のような気がしてなりません。
社会人の振り返り 22 【最後の挑戦(2011)】
2015年03月30日
今日はイイ天気ですね~。
今日もがんばってブログ更新です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
=======================================================================
おぼろげながらに、目標も見え、
そして汗水たらしながら邁進する日々。
しかし、そんなちょっとした努力を繰り返すだけでは、
ハッピー!!っていう展開にはならないですね・・・。
会社を運営するには、当然のことながら、
収入 > 支出
は必須項目。
歴史のある会社は、培ってきた財産を上手に減らしたりしながら
会社を運営していくことが可能でしょうが、
まだ新しい会社で資産も歴史もない会社では、長期における赤字は会社の存続を
危うくするものだと思います。
将来に展望があれば、金融機関からの借り入れ等でしのぐことも可能でしょうが・・。
いよいよ、将来について考えなければいけない時期にさしかかってきました。
同じようにやってたら、何も変わらない・・。
自分の頭の中を
「転職」
その言葉が多く占めるようになってきました。
一方で、箕面に本拠地を移した時から、常に僕の頭の中を
離れなかったこと。
「お店を持つ」
という選択肢。
常に考えながらも、
・ 業界自体が下降線を辿っている
・ 固定費が上昇する
専門家たる人に、色々と相談をさせていただいても、多くの方が
どちらかといえば、
「店舗反対派」
でした。
中には「店舗推進派」の意見をいただいた方もいましたが、
自称「慎重派」の自分としてはリスクをとって進めることができなかったのが現実です。
とはいえ、もう展望が見えなく、「転職」も考え出した中、
僕が下した決断は、
「お店を出そう!アカンかったら転職したらええやん」
そんな半ば開き直りの決心でした。
そんな本気の決心をした時に、
偶然にも、今のお店の物件を見つけました。
それまでも色々と物件をネットで探したりしてましたが、
やっぱり本気の決心が出来てなかったので、中途半端に終わってました。
そして、この物件を決めた理由のひとつ。
それは、
嫁さんが、
「ここ、いいんちゃう」
その一言です。
不思議なもので、普段優柔不断な自分も、
なぜかスーっと決めることができました。
結果として、この物件が非常によかったことは後述するとして、
最後の挑戦が始まりました。
もう崖っぷちです。
退路を断ち、前に進むしかない。
そんな心境で、
ジュエリーリフォーム・修理専門店
「箕面のちいさな宝石屋」
をオープンさせました。
今日もがんばってブログ更新です。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
第二十一回 【ちいさな一歩(2011)】
=======================================================================
おぼろげながらに、目標も見え、
そして汗水たらしながら邁進する日々。
しかし、そんなちょっとした努力を繰り返すだけでは、
ハッピー!!っていう展開にはならないですね・・・。
会社を運営するには、当然のことながら、
収入 > 支出
は必須項目。
歴史のある会社は、培ってきた財産を上手に減らしたりしながら
会社を運営していくことが可能でしょうが、
まだ新しい会社で資産も歴史もない会社では、長期における赤字は会社の存続を
危うくするものだと思います。
将来に展望があれば、金融機関からの借り入れ等でしのぐことも可能でしょうが・・。
いよいよ、将来について考えなければいけない時期にさしかかってきました。
同じようにやってたら、何も変わらない・・。
自分の頭の中を
「転職」
その言葉が多く占めるようになってきました。
一方で、箕面に本拠地を移した時から、常に僕の頭の中を
離れなかったこと。
「お店を持つ」
という選択肢。
常に考えながらも、
・ 業界自体が下降線を辿っている
・ 固定費が上昇する
専門家たる人に、色々と相談をさせていただいても、多くの方が
どちらかといえば、
「店舗反対派」
でした。
中には「店舗推進派」の意見をいただいた方もいましたが、
自称「慎重派」の自分としてはリスクをとって進めることができなかったのが現実です。
とはいえ、もう展望が見えなく、「転職」も考え出した中、
僕が下した決断は、
「お店を出そう!アカンかったら転職したらええやん」
そんな半ば開き直りの決心でした。
そんな本気の決心をした時に、
偶然にも、今のお店の物件を見つけました。
それまでも色々と物件をネットで探したりしてましたが、
やっぱり本気の決心が出来てなかったので、中途半端に終わってました。
そして、この物件を決めた理由のひとつ。
それは、
嫁さんが、
「ここ、いいんちゃう」
その一言です。
不思議なもので、普段優柔不断な自分も、
なぜかスーっと決めることができました。
結果として、この物件が非常によかったことは後述するとして、
最後の挑戦が始まりました。
もう崖っぷちです。
退路を断ち、前に進むしかない。
そんな心境で、
ジュエリーリフォーム・修理専門店
「箕面のちいさな宝石屋」
をオープンさせました。
社会人生活の振り返り21 【ちいさな一歩(2011)】
2015年03月24日
続けます!!
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
=======================================================================
なかなか、うまくいかず、行き詰まり。
そして焦りばっかりが募る一方・・・。
立ち止まって真剣に自分の立ち位置を考えました。
いろいろな書籍からたくさんのインプットをするも、
なかなか行動(アウトプット)に移せない現実。
ただ、そのインプットの中から、これならもしかして・・・
という知恵を学びました。
ビジネス的な用語で言うと、
「ランチェスター戦略」
詳しい内容は専門書に譲るとして、
小さな会社が取るべき戦略を指南したものです。
お金もない、商品力もない・・
地元にコネも何にもない・・。
そんな自分でもこれならやってみる価値があるのかな・・と。
自分の仕事に置き換えると、
・ 商品戦略
いままでは「宝石のことなら何でも言ってください~!」
って感じだったのを、「宝石のリフォーム(作り変え)、修理を専門にやってます!」
とう風に変える
・ 地域戦略
いままではネットなどを使って、
「全国各地からのお客さま大歓迎~!!」
って感じだったのを、「箕面を中心として北摂に根ざしてやってます!」
という風に変える。
簡単に言えば、
「北摂地域でジュエリーリフォーム・修理のお店で一番になる」
って目標です。
まずは、チラシを作りました!!
とは言え、お金もないので、
自作、そして手配りです。
住宅地図を購入して、毎日毎日、地区ごとにポスティングをしてまわりました。
ちょうど、真夏だったので、
短パン、Tシャツ、そしてウエストポーチにドリンクを入れて、
汗だっくだくで周りました。
照りつける太陽、
乱反射するアスファルト、
まさに灼熱地獄。
でも、今できるのはこれしかない・・。
そう思って、一心不乱に配り続けました。
中には、「チラシいれんとって~」
などお叱りをいただく家庭もありました。
おかげさまで地域の道が詳しくなりました(笑)
いつの時間に配ると、お客さまに手にとってもらいやすいか?
色んなことを考え実践を繰り返しました。
「チラシを見てお電話したんですけど・・」
そんな風に初めて、お電話をいただいた時の喜びは今でも忘れません。
お伺いして、宝石のお修理のお仕事をいただきました。
一生懸命、お客さまが喜んでいただけるように対応しました。
配った枚数から何件電話がかかってくるか・・
気も遠くなるほどの数字です。
中には、お店がないことに不信感を覚えて、ご依頼されるのに躊躇
される方もいました。
でも、自分にできることはそれしかない・・。
そう思いながら、日々実践を続けました。
おかげさまで今は、お店を構えるようになり、
ポスティングもエリアを広げて、
かつ、専門の業者さんに外注をしています。
でも、あーやって初心に立ち返って、
自分でポスティングをするのもいいかなって思います。
お客さまのありがたみをきっと再認識させてくれるから。
業績に改善は見られないものの、
ドトールでお茶をして時間をつぶしていたころに比べて、
汗かいて、一心不乱に歩きまくってたこの時期はまだ精神的にも
落ち着いてたのかなって思います。
「北摂地域でジュエリーリフォーム・修理のお店で一番になる」
ちいさなちいさな一歩を踏み出しました。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
第十九回 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
第二十回 【出口の見えない迷路(2009~2011)】
=======================================================================
なかなか、うまくいかず、行き詰まり。
そして焦りばっかりが募る一方・・・。
立ち止まって真剣に自分の立ち位置を考えました。
いろいろな書籍からたくさんのインプットをするも、
なかなか行動(アウトプット)に移せない現実。
ただ、そのインプットの中から、これならもしかして・・・
という知恵を学びました。
ビジネス的な用語で言うと、
「ランチェスター戦略」
詳しい内容は専門書に譲るとして、
小さな会社が取るべき戦略を指南したものです。
お金もない、商品力もない・・
地元にコネも何にもない・・。
そんな自分でもこれならやってみる価値があるのかな・・と。
自分の仕事に置き換えると、
・ 商品戦略
いままでは「宝石のことなら何でも言ってください~!」
って感じだったのを、「宝石のリフォーム(作り変え)、修理を専門にやってます!」
とう風に変える
・ 地域戦略
いままではネットなどを使って、
「全国各地からのお客さま大歓迎~!!」
って感じだったのを、「箕面を中心として北摂に根ざしてやってます!」
という風に変える。
簡単に言えば、
「北摂地域でジュエリーリフォーム・修理のお店で一番になる」
って目標です。
まずは、チラシを作りました!!
とは言え、お金もないので、
自作、そして手配りです。
住宅地図を購入して、毎日毎日、地区ごとにポスティングをしてまわりました。
ちょうど、真夏だったので、
短パン、Tシャツ、そしてウエストポーチにドリンクを入れて、
汗だっくだくで周りました。
照りつける太陽、
乱反射するアスファルト、
まさに灼熱地獄。
でも、今できるのはこれしかない・・。
そう思って、一心不乱に配り続けました。
中には、「チラシいれんとって~」
などお叱りをいただく家庭もありました。
おかげさまで地域の道が詳しくなりました(笑)
いつの時間に配ると、お客さまに手にとってもらいやすいか?
色んなことを考え実践を繰り返しました。
「チラシを見てお電話したんですけど・・」
そんな風に初めて、お電話をいただいた時の喜びは今でも忘れません。
お伺いして、宝石のお修理のお仕事をいただきました。
一生懸命、お客さまが喜んでいただけるように対応しました。
配った枚数から何件電話がかかってくるか・・
気も遠くなるほどの数字です。
中には、お店がないことに不信感を覚えて、ご依頼されるのに躊躇
される方もいました。
でも、自分にできることはそれしかない・・。
そう思いながら、日々実践を続けました。
おかげさまで今は、お店を構えるようになり、
ポスティングもエリアを広げて、
かつ、専門の業者さんに外注をしています。
でも、あーやって初心に立ち返って、
自分でポスティングをするのもいいかなって思います。
お客さまのありがたみをきっと再認識させてくれるから。
業績に改善は見られないものの、
ドトールでお茶をして時間をつぶしていたころに比べて、
汗かいて、一心不乱に歩きまくってたこの時期はまだ精神的にも
落ち着いてたのかなって思います。
「北摂地域でジュエリーリフォーム・修理のお店で一番になる」
ちいさなちいさな一歩を踏み出しました。
社会人生活の振り返り⑲ 【ブルーインズ 苦しみの果てに(2005~2010)】
2015年03月16日
お店での「パールフェア」も終わってひと段落
ブログは続けます。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
=======================================================================
プライベートに話を戻します。
トップリーグに3年在籍するも、
再度、2部リーグに降格。
出直しを強いられた阪急ブルーインズ。
当然、皆の願いは
一年でトップリーグに返り咲くこと。
ただ、なかなか歯車が噛み合わず、
リーグで優勝することもままならないと年が続きました。
「どうやったら勝てるねん・・・」
昔からいたメンバーは、いつもそう嘆き、苦しみぬいた時期を送りました。
先にお話したように、会社が倒産の危機を迎えたとき、
ほんの少しチームを離れましたが、
多くの時間をブルーインズに注ぎ込みました。
勝てない苦しみはもちろんのこと、
この時期で一番つらかったのが、
一緒にがんばってきたメンバーが、
年齢のこと
体力のこと
そして、社会人という立場上、転勤などを理由に、
1人、2人とチームを離れていったこと。
とてもつらかったです。
でも、一方で、
転勤などはなく、そして父親のおかげで恵まれた環境にあった自分は、
「チームを止む無く離れていった仲間のためにもこのチームを一部に昇格させる」
そんな使命を持って、頑張ったのがこの時期だったと思います。
なかなか勝てなくても、
往生際悪く、来る年も来る年も、1部昇格に向けてがんばりました。
しかし、
寄る年波には勝てず
とはよく言ったものです。
2010年のシーズンを持って引退をすることになりました。
高校 3年間
大学 4年間
そして社会人で13年間。
20年間をフットボールの選手として過ごすことができました。
怪我も多くしましたが、こうやって20年間フットボールができたことは
今思っても幸せなことだって強く思いますね。
たいした選手ではない自分がここまで出来たのは、
自分で言うのもなんですが、
「無事是良馬」
のタイプだったのかもしれません。
そして翌年からは、
チームからの要請をいただき、コーチとして関わらせていただくこととなりました。
ありがたいことです。
一部に昇格できなかった無念を、違う立場で追い求めることになりました。
今日はこのへんで。
ブログは続けます。
=======================================================================
過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
第十八回 【転機(2008~2010)】
=======================================================================
プライベートに話を戻します。
トップリーグに3年在籍するも、
再度、2部リーグに降格。
出直しを強いられた阪急ブルーインズ。
当然、皆の願いは
一年でトップリーグに返り咲くこと。
ただ、なかなか歯車が噛み合わず、
リーグで優勝することもままならないと年が続きました。
「どうやったら勝てるねん・・・」
昔からいたメンバーは、いつもそう嘆き、苦しみぬいた時期を送りました。
先にお話したように、会社が倒産の危機を迎えたとき、
ほんの少しチームを離れましたが、
多くの時間をブルーインズに注ぎ込みました。
勝てない苦しみはもちろんのこと、
この時期で一番つらかったのが、
一緒にがんばってきたメンバーが、
年齢のこと
体力のこと
そして、社会人という立場上、転勤などを理由に、
1人、2人とチームを離れていったこと。
とてもつらかったです。
でも、一方で、
転勤などはなく、そして父親のおかげで恵まれた環境にあった自分は、
「チームを止む無く離れていった仲間のためにもこのチームを一部に昇格させる」
そんな使命を持って、頑張ったのがこの時期だったと思います。
なかなか勝てなくても、
往生際悪く、来る年も来る年も、1部昇格に向けてがんばりました。
しかし、
寄る年波には勝てず
とはよく言ったものです。
2010年のシーズンを持って引退をすることになりました。
高校 3年間
大学 4年間
そして社会人で13年間。
20年間をフットボールの選手として過ごすことができました。
怪我も多くしましたが、こうやって20年間フットボールができたことは
今思っても幸せなことだって強く思いますね。
たいした選手ではない自分がここまで出来たのは、
自分で言うのもなんですが、
「無事是良馬」
のタイプだったのかもしれません。
そして翌年からは、
チームからの要請をいただき、コーチとして関わらせていただくこととなりました。
ありがたいことです。
一部に昇格できなかった無念を、違う立場で追い求めることになりました。
今日はこのへんで。
社会人生活の振り返り⑱ 【転機(2008~2010)】
2015年03月14日
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
第十六回 【大逆転劇(2003~2004)】
第十七回 【インターネットに挑戦(2008~2009)】
=======================================================================
さてと、仕事、そしてフットボールが中心のコラムになってますが、
このことだけはお話しておかないと・・。
新たな道を模索し続けたちょうどこの頃、
今の嫁さんとの出会いがありました。
仕事関係で知り合ったご年配の方から、
「越野クンは意中の子はいるの?」
なんて聞かれたのを覚えてます。
その方の娘さんの親友が今の嫁さんでした。
ご紹介いただき、とんとん拍子で話が進み、あっという間に
婚約、そして結婚。
出会ってからちょうど1年で結婚。
そんなこともあるんですね。
でも、仕事の先行きがまったく見えない中、
よくぞ結婚をしてくれたなって・・。感謝、感謝。
プライベートなことはそのあたりにしておいて、
何か仕事のヒント、打開策を見つけようと、
当時は色々なビジネス書の類のものを乱読してました。
本などまったくの無縁の自分がすがる気持ちで、
色々な種類の本を読みました。
そして色々なセミナーや異業種交流会にも参加しました。
じゃあ、そこで何かヒントを得れることができたのか?
と問うと、そうでもないのですが、
人との出会いが自分のそれからの人生の羅針盤のようになってくれたのも事実です。
デパートや宝石店に商品を卸す仕事がメイン。
でも、非常に苦しい状況。
インターネットでの商品販売。
新規参入者が多い上に、先に話したように取扱商品の供給問題が浮上。
こちらも将来性には乏しく感じ・・。
そういう仕事をしながらも、
知人・友人から結婚指輪や婚約指輪のご相談も受けてました。
「こっし~=宝石屋」
そんなイメージは知らず知らずに浸透していったんでしょうね。
自分で言うのもなんですが、昔から、多くの友達に恵まれていて、
そんな友達が結婚をするとなると声をかけてくれるようになりました。
何気に対応しつつも、そんな指輪を買ってもらった友人が、
結婚式なんかで、僕のほうに笑顔で指輪を見せてくれるんですよね。
そのたびに嬉しい気持ちにさせてくれました。
あまり、それまでは深く考えてなかったけど、
仕事に行き詰ったとき、将来を考えた時、
こうやって直接エンドユーザーさんに商品を販売して、
笑顔になってくれるのを見ることができる。
小売業にチカラを入れていこう!!
そう思うようになりました。
ちょうど時期を同じくして、
嫁さんのお腹には子供が。
当時、大阪の南船場のマンションを住居兼仕事場として使ってました。
結婚して数ヶ月はそのマンションに住んでいたのですが、
子供が出来るとなると、嫁さんの実家の近くにいた方が何かとチカラに
なってもらえるし。
そう思い、嫁さんの生まれ育った町、箕面市に引っ越すことを決めました。
卸の方の仕事の低迷が続き、
そして小売を始めるにしても、まだまだ暗中模索の状態。
引っ越した自宅を拠点にして、新たな道を歩き始めました。
社会人生活の振り返り⑯ 【大逆転劇(2003~2004)】
2015年03月11日
プライベートで旅行に行ってたり、
そしてお店では
「パールフェア」のイベント中。
ちょっとサボってしまったけど続けます。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
=======================================================================
仕事とプライベートの時期関係が揃わないですが・・
今日はプライベートな方で。
あいもかわらず当時はフットボール一色でした。
Xリーグで悲願の初勝利をおさめ、
チームの士気は高まり、リーグ2年目を迎えました。
ただ最高峰のリーグなだけあって、そうは甘くはありません。
1年目同様。上位チームにはコテンパンに叩きのめされる結末。
ただ、結果はなかなかついてきませんでしたが、
当時、スポンサー企業の阪急グループ様の福利厚生施設で
合宿をしたりと、学生さながらの取り組みをすることができました。
今は会社方針でそのような施設がなくなってしまってるのが残念ですが、
これも時代の流れなのでしょうか・・・。
皆が、それぞれに仕事を持ちながらも、週末には集まり、
そして、1泊と言えど、みんなで寝食をともにし、
フットボール漬けの日々を送ったことは今でもとても良い思い出として残ってます。
さて、話はリーグ戦に戻り、
このシーズンのベストゲームは、
確かリーグ第四節。
先の入れ替え戦でも対戦したことのある、
イワタニサイドワインダーズ
下馬評通り、ゲーム序盤は圧倒的な劣勢
第3クオーター残り数分まで0vs21。
そんな劣勢を最終第4クオーターで大逆転しました。
あきらめかけたチームを救ったのは、
その時のエースQB(クオーターバック)橋本慎司。
彼のあきらめない気持ちにチームが追随し、
最後は大きな波となって、相手を飲み込んだようなゲームでした。
高校・大学そして社会人とフットボールを続けてきて、
あんな逆転劇に出くわしたのは、後にも先にもありません。
フットボールって面白い。
そう思わせてくれる試合でもありました。
この貴重な一勝でリーグ5位。
ただなかなかXリーグのハードルは高く、
翌年にはリーグ最下位。
そして入れ替え戦敗退。
2部リーグからの出直しを強いられました。
こういうと不謹慎かもしれませんが、2部降格以降
ブルーインズの暗黒の時代が続くことになります。
今日はこのあたりで。
そしてお店では
「パールフェア」のイベント中。
ちょっとサボってしまったけど続けます。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
第十五回 【誇らしい出来事】
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仕事とプライベートの時期関係が揃わないですが・・
今日はプライベートな方で。
あいもかわらず当時はフットボール一色でした。
Xリーグで悲願の初勝利をおさめ、
チームの士気は高まり、リーグ2年目を迎えました。
ただ最高峰のリーグなだけあって、そうは甘くはありません。
1年目同様。上位チームにはコテンパンに叩きのめされる結末。
ただ、結果はなかなかついてきませんでしたが、
当時、スポンサー企業の阪急グループ様の福利厚生施設で
合宿をしたりと、学生さながらの取り組みをすることができました。
今は会社方針でそのような施設がなくなってしまってるのが残念ですが、
これも時代の流れなのでしょうか・・・。
皆が、それぞれに仕事を持ちながらも、週末には集まり、
そして、1泊と言えど、みんなで寝食をともにし、
フットボール漬けの日々を送ったことは今でもとても良い思い出として残ってます。
さて、話はリーグ戦に戻り、
このシーズンのベストゲームは、
確かリーグ第四節。
先の入れ替え戦でも対戦したことのある、
イワタニサイドワインダーズ
下馬評通り、ゲーム序盤は圧倒的な劣勢
第3クオーター残り数分まで0vs21。
そんな劣勢を最終第4クオーターで大逆転しました。
あきらめかけたチームを救ったのは、
その時のエースQB(クオーターバック)橋本慎司。
彼のあきらめない気持ちにチームが追随し、
最後は大きな波となって、相手を飲み込んだようなゲームでした。
高校・大学そして社会人とフットボールを続けてきて、
あんな逆転劇に出くわしたのは、後にも先にもありません。
フットボールって面白い。
そう思わせてくれる試合でもありました。
この貴重な一勝でリーグ5位。
ただなかなかXリーグのハードルは高く、
翌年にはリーグ最下位。
そして入れ替え戦敗退。
2部リーグからの出直しを強いられました。
こういうと不謹慎かもしれませんが、2部降格以降
ブルーインズの暗黒の時代が続くことになります。
今日はこのあたりで。
社会人生活の振り返り⑮【誇らしい出来事(2005)】
2015年03月04日
今でも心に残ってる話を紹介させていただきます。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
=======================================================================
少しプレイバックして、
ちょっとしたこぼれ話を。
得意先の倒産
その現時を受け止め、奔走した社長。
僕の記憶が定かではないですが、
その得意先の管財人の元、
倒産した会社の在庫商品を債権者が優先的に買い戻すことができる。
そんな会があったように思えます。
僕も確かちょっと顔を出した記憶があるのですが、
そこには得意先の社長の姿はありませんでしたが、
頭を垂れて、うなだれる社員の方々の姿がありました。
申し訳のない気持ちでいっぱいだったと思います。
結果はこうなってしまいましが、その社員の方々には本当によくしていただいてました。
その社員の方から後日、こんなことを聞かされました。
「越野クンのお父さんはあの時、頭を下げて謝る僕たちにこんな声をかけてくださった。
『君たちはまったく悪くない。悪いのは全て社長なんやから。
顔あげて、がんばって!!』
と。僕たちはあの言葉に救われました」
と。
それを聞きグッときました。
あの決して、少ないとはいえない金額。
そして会社の存続を危うくするほどの出来事。
その状況を目の当たりにする中でよく、そんな声をかけることができたなって。
今、僕が同じ出来事に遭遇しても、そういった対応はできないと思います。
そして、加えて、その倒産してしまった会社の営業マンを数名、
同じ業界の違い会社への口利きもしました。
おかげで、その営業の方は今でもとてもよくしていただき、
その会社で頑張っておられます。
一般的に考えたら、
得意先の業績を見極め、リスク管理できなかった社長が悪い
となるのですが、
僕は父親のとったその一連の言動を誇らしく思うんです。
因果応報って言ってしまっていいのかわかりませんが、
僕の生きかたのひとつの指針ともなる出来事です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
第十四回 【新しい船出(2008)】
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少しプレイバックして、
ちょっとしたこぼれ話を。
得意先の倒産
その現時を受け止め、奔走した社長。
僕の記憶が定かではないですが、
その得意先の管財人の元、
倒産した会社の在庫商品を債権者が優先的に買い戻すことができる。
そんな会があったように思えます。
僕も確かちょっと顔を出した記憶があるのですが、
そこには得意先の社長の姿はありませんでしたが、
頭を垂れて、うなだれる社員の方々の姿がありました。
申し訳のない気持ちでいっぱいだったと思います。
結果はこうなってしまいましが、その社員の方々には本当によくしていただいてました。
その社員の方から後日、こんなことを聞かされました。
「越野クンのお父さんはあの時、頭を下げて謝る僕たちにこんな声をかけてくださった。
『君たちはまったく悪くない。悪いのは全て社長なんやから。
顔あげて、がんばって!!』
と。僕たちはあの言葉に救われました」
と。
それを聞きグッときました。
あの決して、少ないとはいえない金額。
そして会社の存続を危うくするほどの出来事。
その状況を目の当たりにする中でよく、そんな声をかけることができたなって。
今、僕が同じ出来事に遭遇しても、そういった対応はできないと思います。
そして、加えて、その倒産してしまった会社の営業マンを数名、
同じ業界の違い会社への口利きもしました。
おかげで、その営業の方は今でもとてもよくしていただき、
その会社で頑張っておられます。
一般的に考えたら、
得意先の業績を見極め、リスク管理できなかった社長が悪い
となるのですが、
僕は父親のとったその一連の言動を誇らしく思うんです。
因果応報って言ってしまっていいのかわかりませんが、
僕の生きかたのひとつの指針ともなる出来事です。
社会人生活の振り返り⑭ 【新たな船出(2008)】
2015年03月03日
ちょっとあいてしまいましたが、更新です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
=======================================================================
得意先の倒産。
目を背けたもなりましたが、現実を受け止めるしかありませんでした・・。
回収できないお金。
それは言うまでもなく、会社にとって死活問題だったのですが、
毎月の売上がグンと減ってしまうというダブルの問題を抱えるようになりました。
それから社長である、父親は
金融機関、税理士さん
その他、使えるブレインを総動員して不良債権の手当てに奔走しました。
そのあたりの詳しい話については隠すわけではないですが、
非公開とさせてください。
そして、先のブレインの中には弁護士の先生も含まれております。
フットボールチームに畑 さんという弁護士の先生がおられました。
同じポジションということでとても親しくさせていただいてました。
そんな異色のフットボーラーでもある畑先生にも当時、色々と
動いていただき、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
不思議なご縁ですよね。
その過程の中で、父親が考え、そして下した決断は、
「泰明(僕)に別会社を作らせて独立させる、
そして今の会社は緩やかにランディング(着地)させて廃業する」
というもの。
詳しいスキームを話すと、長くなりますが、
得意先、仕入先を全て、僕の会社に移行させて、
きれいな財務状況で1からスタートさせるというものです。
思わぬ形で、自分が社長に就くことになりました。
会社名は
「株式会社 ワイスタイル」
ワイ「Y」は自分のイニシャル。
そして、スタイル「style」は自分らしく
そんな思いをつけて新しい船出をスタートさせました。
得意先や仕入先、すべての理解をいただけたのも、
父親がよき関係性を築いてくれてたからこそ。
本当にそう思い、感謝の気持ちでいっぱいです。
資本金は100万円。
この後に及んでも父親のすねをかじってるダメ息子。
会社の実印を作り、
そして会社の登記をするところからスタートしました。
自分がやってきた会社を失う。
そんな父親の心中を察すると、心苦しいものがあったけど、
父親としては「代替わり」をするよいキッカケととらえ、
新会社の設立をとても喜んでくれました。
以降、父親は、こちらからアドバイスをもとめれば
色々と話をしてくれましたが、
それ以外は一切口を出さずに見守ってくれてます。
それは今でもそうです。
言いたいことの1つや2つはあると思いますが・・・。
得意先と仕入先。
ある程度の基盤がある中での起業。
恵まれていたと思います。そう考えるとゼロから起業した人
って本当にすごいなあっていつも思います。
いよいよ誰にも甘えることのできない、
自分が切り開いていかないといけない。
そんな危機感を持ち始めたのがちょうどこの頃です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
第十三回 【まさかの悲劇(2004~2006)】
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得意先の倒産。
目を背けたもなりましたが、現実を受け止めるしかありませんでした・・。
回収できないお金。
それは言うまでもなく、会社にとって死活問題だったのですが、
毎月の売上がグンと減ってしまうというダブルの問題を抱えるようになりました。
それから社長である、父親は
金融機関、税理士さん
その他、使えるブレインを総動員して不良債権の手当てに奔走しました。
そのあたりの詳しい話については隠すわけではないですが、
非公開とさせてください。
そして、先のブレインの中には弁護士の先生も含まれております。
フットボールチームに畑 さんという弁護士の先生がおられました。
同じポジションということでとても親しくさせていただいてました。
そんな異色のフットボーラーでもある畑先生にも当時、色々と
動いていただき、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
不思議なご縁ですよね。
その過程の中で、父親が考え、そして下した決断は、
「泰明(僕)に別会社を作らせて独立させる、
そして今の会社は緩やかにランディング(着地)させて廃業する」
というもの。
詳しいスキームを話すと、長くなりますが、
得意先、仕入先を全て、僕の会社に移行させて、
きれいな財務状況で1からスタートさせるというものです。
思わぬ形で、自分が社長に就くことになりました。
会社名は
「株式会社 ワイスタイル」
ワイ「Y」は自分のイニシャル。
そして、スタイル「style」は自分らしく
そんな思いをつけて新しい船出をスタートさせました。
得意先や仕入先、すべての理解をいただけたのも、
父親がよき関係性を築いてくれてたからこそ。
本当にそう思い、感謝の気持ちでいっぱいです。
資本金は100万円。
この後に及んでも父親のすねをかじってるダメ息子。
会社の実印を作り、
そして会社の登記をするところからスタートしました。
自分がやってきた会社を失う。
そんな父親の心中を察すると、心苦しいものがあったけど、
父親としては「代替わり」をするよいキッカケととらえ、
新会社の設立をとても喜んでくれました。
以降、父親は、こちらからアドバイスをもとめれば
色々と話をしてくれましたが、
それ以外は一切口を出さずに見守ってくれてます。
それは今でもそうです。
言いたいことの1つや2つはあると思いますが・・・。
得意先と仕入先。
ある程度の基盤がある中での起業。
恵まれていたと思います。そう考えるとゼロから起業した人
って本当にすごいなあっていつも思います。
いよいよ誰にも甘えることのできない、
自分が切り開いていかないといけない。
そんな危機感を持ち始めたのがちょうどこの頃です。
社会人生活の振り⑬ 【まさかの悲劇(2004~2006)】
2015年02月25日
今日も元気に更新です!
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
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フットボールが充実してる、一方。
仕事は平凡な日々。
っていうより自身の意識の低さが平凡に思わせる大きな原因のひとつ。
今だから白状できますが、
感覚としては、週末のフットボールのために、
平日は仕事をしながら週末に向けて余力をつけてるという感じ・・。
一方、巡航速度でありながら、
宝石業界の色々なノウハウを身に付けたのはこのころだったと思います。
今でも宝石と言うと、海外に買い付けに行って買ってくるものというイメージを
多くお持ちの方が多いかと思います。
中には、「宝石がたくさん眠った鉱山を当てたら大金持ちちゃうの?」
そんな夢見話をされる方も多いです。
自分の会社も、ルビーやサファイヤなどの宝石が有名なカラーストーン(色石)
を中心にした製品を取り扱っていたので、
本来なら、定期的に海外買い付けが必要ではありましたが、
僕の入社時には信用できるブローカー(宝石を現地で仕入れてくる輸入者)から
買うことが多くなってました。
それ以前には父親もよく海外に行ってたようですが・・・。
つまりは、その時点で、国内で宝石を販売することが下降曲線を辿っていて、
買い付けにいくだけのコストが商品に転嫁できなくなってました。
実際、現地で宝石を見て学ぶのがベストではあったものの、
なかなか行く機会が少なくなり・・。
でも、父親が当時よく言ってたのが、
「たくさんの宝石を見ること、それが今後に繋がるんだ」と。
確かに、今は宝石のリフォームを中心としてお店をしてますが、
そこにお持ちになられる石のある程度の評価をできるのはこのころの蓄積があったからこそ
だと思います。
あとは、話が少し前後しますが、
この仕事を始めて、面食らったことが・・。
ほとんどの得意先の代金回収が、「集金」によるものでした。
それに加えて、小切手などをもらえるのは言いのですが、
中にはとてつもない回収サイトの「約束手形」をもらうことも少なくはなかったです。
当時は財務関係の仕事の100%を社長である父親がしていたので、
そこまで思わなかったのですが、
ほんのちょっと知恵と経験を蓄えた今の自分が振り返ると、
「なんて、リスキーな仕事なんや・・」
って思いますね。
ただ当時は、まだまだ日本経済の先行きもそこまで悲観されていなかったので、
商習慣として、売上回収に関する意識は今ほどなかったのかもしれません。
このリスクがいっぱい詰まった状況が、この後に飛んでもない会社の危機を招くことになります。
そんなこともいざ知らず、マイペースに仕事をしてました。
この頃には、なんとなく仕事にもなれ、
自分で仕事を生み出す術も身に付けるようになりました。
アメフトのチームに多くいた、
「阪急百貨店」の社員の人間関係を通じて、
デパートの催しなどに出品をするようになったのもこのころ。
自分の力でほんの少しですが、
会社の売上に貢献できるようになったのもこの頃でした。
そんな時に驚くようなことが起こりました。
大口得意先の倒産。
寝耳に水とはまさしくこのこと。
会社の危機管理が足りなかったといえば、それまでですが、
本当に突然のことでした。
有名デパートに入っている宝石店
早速、親父の指令を受けて、その宝石店の事務所へ
(事務所はデパートとは違うところにありました)
すると、人の気配すらなく・・。
確か、張り紙か何かが、張ってあったような気が・・。
本当に慌しい日々が始まりました。
何か、信じられない思いと、暗闇に突き飛ばされたかのような思い。
増長する不安との戦い。
一体どうなるんやろ・・・。
ノホホンと仕事をしてた、ツケが回ってきた。
そんな冷静に考えれるほどの余裕もまったくなく。
でも情けないことに当時の自分には、打開できるだけのチカラは
まったくなく、
親父の経営者としての判断に委ね、
自分はできることをするしか術はありませんでした。。。
「あの時には二度と戻りたくない」
今でも強く思ってます。
一方で、あの得意先の倒産が無かったら、今の自分はない。
そうとも思ってます。
日々、仕事をする中で、どうしても自分に甘えて楽をすることもあります。
そんなときに思い出すようにしてます。
目の前が真っ暗になって、路頭に迷いそうになったあの時のことを。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
第十二回 【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2003)】
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フットボールが充実してる、一方。
仕事は平凡な日々。
っていうより自身の意識の低さが平凡に思わせる大きな原因のひとつ。
今だから白状できますが、
感覚としては、週末のフットボールのために、
平日は仕事をしながら週末に向けて余力をつけてるという感じ・・。
一方、巡航速度でありながら、
宝石業界の色々なノウハウを身に付けたのはこのころだったと思います。
今でも宝石と言うと、海外に買い付けに行って買ってくるものというイメージを
多くお持ちの方が多いかと思います。
中には、「宝石がたくさん眠った鉱山を当てたら大金持ちちゃうの?」
そんな夢見話をされる方も多いです。
自分の会社も、ルビーやサファイヤなどの宝石が有名なカラーストーン(色石)
を中心にした製品を取り扱っていたので、
本来なら、定期的に海外買い付けが必要ではありましたが、
僕の入社時には信用できるブローカー(宝石を現地で仕入れてくる輸入者)から
買うことが多くなってました。
それ以前には父親もよく海外に行ってたようですが・・・。
つまりは、その時点で、国内で宝石を販売することが下降曲線を辿っていて、
買い付けにいくだけのコストが商品に転嫁できなくなってました。
実際、現地で宝石を見て学ぶのがベストではあったものの、
なかなか行く機会が少なくなり・・。
でも、父親が当時よく言ってたのが、
「たくさんの宝石を見ること、それが今後に繋がるんだ」と。
確かに、今は宝石のリフォームを中心としてお店をしてますが、
そこにお持ちになられる石のある程度の評価をできるのはこのころの蓄積があったからこそ
だと思います。
あとは、話が少し前後しますが、
この仕事を始めて、面食らったことが・・。
ほとんどの得意先の代金回収が、「集金」によるものでした。
それに加えて、小切手などをもらえるのは言いのですが、
中にはとてつもない回収サイトの「約束手形」をもらうことも少なくはなかったです。
当時は財務関係の仕事の100%を社長である父親がしていたので、
そこまで思わなかったのですが、
ほんのちょっと知恵と経験を蓄えた今の自分が振り返ると、
「なんて、リスキーな仕事なんや・・」
って思いますね。
ただ当時は、まだまだ日本経済の先行きもそこまで悲観されていなかったので、
商習慣として、売上回収に関する意識は今ほどなかったのかもしれません。
このリスクがいっぱい詰まった状況が、この後に飛んでもない会社の危機を招くことになります。
そんなこともいざ知らず、マイペースに仕事をしてました。
この頃には、なんとなく仕事にもなれ、
自分で仕事を生み出す術も身に付けるようになりました。
アメフトのチームに多くいた、
「阪急百貨店」の社員の人間関係を通じて、
デパートの催しなどに出品をするようになったのもこのころ。
自分の力でほんの少しですが、
会社の売上に貢献できるようになったのもこの頃でした。
そんな時に驚くようなことが起こりました。
大口得意先の倒産。
寝耳に水とはまさしくこのこと。
会社の危機管理が足りなかったといえば、それまでですが、
本当に突然のことでした。
有名デパートに入っている宝石店
早速、親父の指令を受けて、その宝石店の事務所へ
(事務所はデパートとは違うところにありました)
すると、人の気配すらなく・・。
確か、張り紙か何かが、張ってあったような気が・・。
本当に慌しい日々が始まりました。
何か、信じられない思いと、暗闇に突き飛ばされたかのような思い。
増長する不安との戦い。
一体どうなるんやろ・・・。
ノホホンと仕事をしてた、ツケが回ってきた。
そんな冷静に考えれるほどの余裕もまったくなく。
でも情けないことに当時の自分には、打開できるだけのチカラは
まったくなく、
親父の経営者としての判断に委ね、
自分はできることをするしか術はありませんでした。。。
「あの時には二度と戻りたくない」
今でも強く思ってます。
一方で、あの得意先の倒産が無かったら、今の自分はない。
そうとも思ってます。
日々、仕事をする中で、どうしても自分に甘えて楽をすることもあります。
そんなときに思い出すようにしてます。
目の前が真っ暗になって、路頭に迷いそうになったあの時のことを。
社会人生活の振り返り⑫【阪急ブルーインズXリーグ昇格(2002)】
2015年02月23日
ブログを書かない日は
一気にアクセス数が低くなります(汗)
今週もボチボチがんばります。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
=======================================================================
本来は時系列をベースに、
仕事とプライベートをいったりきたりできたらいいのですが、
前のコラムでも書いたように、この2000~2005あたりは、
フットボール > 仕事
って感じだったので、フットボールの思い出が多くを占めてしまってます。
親父、ゴメン・・・。
ってことで今日も、フットボールの話で。
さて、2年連続入れ替え戦敗退。
たちはだかる大きな壁。
その現実を受け止め、「3度目の正直」を胸に2002年を迎えた阪急ブルーインズ。
ただ、思わぬ形で「一部昇格」を果たすことに。
一部リーグに所属するチームがとある事情で、下位のリーグに降格することに。
その結果、阪急ブルーインズが一部リーグに
「自動昇格」
することになったんです。
ちょっと拍子抜けするところもありましたが、
入部した当時には、
考えもしなかった、「Xリーグ」でプレーすることが現実となりました。
家業に甘え、練習の参加率も高く、
個人的なトレーニングも非常に充実していた時期です。
さらにはチームにおいては
「副将」
という立場をいただきとてもよい経験をさせてもらったのもこの時期かと思います。
松下電工インパルス
アサヒ飲料チャレンジャーズ
学生時代に名を馳せた選手がたくさんいるチームとの対戦。
「ビビらない・・」
と言ったらウソです。。
もちろん大差で木っ端微塵にされるんですが、
どこかチームに開き直りもあって、
ひたすら玉砕を繰り返していって立ち向かっていきました。
周囲の前評判通り、
全敗で最終節を迎えました。
この年はフットボールの聖地とも言われた
「西宮スタジアム」
の最後の年でした。
最終節は、この聖地「西宮スタジアム」
でファイニーズと対戦しました。
試合は、両軍ディフェンスチームの健闘もあって、
終盤までスコアレスのドローが続きました。
本来、僕はディフェンスの選手なので、この展開には
鼻が高くなるところなのですが、
実は、このゲーム。
チーム事情によって僕はオフェンスの助っ人的選手でした。
試合終盤、膠着した状況の中、得たワンチャンス。
忘れもしません。
相手ゴール前に迫り、タッチダウンまで残り数ヤード。
エースランニングバックでもあり、チームの看板でも
ある井岡にボールを集めました。
中央のプレーをひたすら繰り返し、タッチダウン。
実は、その井岡のランをサポートして走路を切り開く
フルバックというポジションに僕はいました。
馴れないポジションでしたが、ひたすら前に前に。
チーム全員の気持ちでもぎとったタッチダウン。
今でもその光景は忘れません。
そして、そのまま試合終了。
学生時代に慣れ親しんだ、
西宮スタジアムで得た、Xリーグでの初勝利。
当時のブルーインズの関係者で、
「思い出に残る一戦」
を投票したらきっとこの試合が上位にランキングされるかと思います。
さらなる飛躍を願って、
ブルーインズは2年目のXリーグでのシーズンを迎えます。
一気にアクセス数が低くなります(汗)
今週もボチボチがんばります。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
第十一回 【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
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本来は時系列をベースに、
仕事とプライベートをいったりきたりできたらいいのですが、
前のコラムでも書いたように、この2000~2005あたりは、
フットボール > 仕事
って感じだったので、フットボールの思い出が多くを占めてしまってます。
親父、ゴメン・・・。
ってことで今日も、フットボールの話で。
さて、2年連続入れ替え戦敗退。
たちはだかる大きな壁。
その現実を受け止め、「3度目の正直」を胸に2002年を迎えた阪急ブルーインズ。
ただ、思わぬ形で「一部昇格」を果たすことに。
一部リーグに所属するチームがとある事情で、下位のリーグに降格することに。
その結果、阪急ブルーインズが一部リーグに
「自動昇格」
することになったんです。
ちょっと拍子抜けするところもありましたが、
入部した当時には、
考えもしなかった、「Xリーグ」でプレーすることが現実となりました。
家業に甘え、練習の参加率も高く、
個人的なトレーニングも非常に充実していた時期です。
さらにはチームにおいては
「副将」
という立場をいただきとてもよい経験をさせてもらったのもこの時期かと思います。
松下電工インパルス
アサヒ飲料チャレンジャーズ
学生時代に名を馳せた選手がたくさんいるチームとの対戦。
「ビビらない・・」
と言ったらウソです。。
もちろん大差で木っ端微塵にされるんですが、
どこかチームに開き直りもあって、
ひたすら玉砕を繰り返していって立ち向かっていきました。
周囲の前評判通り、
全敗で最終節を迎えました。
この年はフットボールの聖地とも言われた
「西宮スタジアム」
の最後の年でした。
最終節は、この聖地「西宮スタジアム」
でファイニーズと対戦しました。
試合は、両軍ディフェンスチームの健闘もあって、
終盤までスコアレスのドローが続きました。
本来、僕はディフェンスの選手なので、この展開には
鼻が高くなるところなのですが、
実は、このゲーム。
チーム事情によって僕はオフェンスの助っ人的選手でした。
試合終盤、膠着した状況の中、得たワンチャンス。
忘れもしません。
相手ゴール前に迫り、タッチダウンまで残り数ヤード。
エースランニングバックでもあり、チームの看板でも
ある井岡にボールを集めました。
中央のプレーをひたすら繰り返し、タッチダウン。
実は、その井岡のランをサポートして走路を切り開く
フルバックというポジションに僕はいました。
馴れないポジションでしたが、ひたすら前に前に。
チーム全員の気持ちでもぎとったタッチダウン。
今でもその光景は忘れません。
そして、そのまま試合終了。
学生時代に慣れ親しんだ、
西宮スタジアムで得た、Xリーグでの初勝利。
当時のブルーインズの関係者で、
「思い出に残る一戦」
を投票したらきっとこの試合が上位にランキングされるかと思います。
さらなる飛躍を願って、
ブルーインズは2年目のXリーグでのシーズンを迎えます。
社会人生活の振り返り⑪【阪急ブルーインズ二度目の挑戦(2001)】
2015年02月19日
仕事とフットボールがいったりきたりになってきました(笑)
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
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前回の記事でも書いたように、
当時、ほんと仕事に対して意識が低かったせいもあり、2000年代の前半は
仕事を振り返ってもなかなか思い起こせないんですよね。
一方で、フットボールに関しては、
印象に残ってることが多いのがこの時期です。
前年、躍進を遂げた阪急ブルーインズ。
メンバーのモチベーションも高く、シーズンを迎えるまでのオフシーズンから、
皆の意識の中には、
「入れ替え戦の勝利」
という誰も異論を挟むことのない、絶対的な目標が共有されてました。
目標を共にする。
ということはとてつもないパワーを発揮する。
そう感じるシーズンでもありました。
昨年、一気にリーグ優勝まで上り詰めたのですが、
このシーズンは同リーグのチームは
「打倒阪急」
で挑んできました。
ただ、そんな果敢な挑戦も、
当日のブルーインズのモチベーションの高さ、そして
チーム力の向上が上回り、見事に返り討ちにして勝利を重ねていきました。
どの試合も僅差をものにして勝利したかと思います。
本当にチカラをつけつつあったのがこのシーズンだったと思います。
さて、当時のブルーインズを語るにおいて、
忘れてはならない人がいます。
昨年までのヘッドコーチ(今季はまだ未定)
福井 健司さんの存在。
当時、ブルーインズにはコーチと呼ばれる存在がほぼいない状況でした。
そんな中、プレイングマネージャー的存在として、チームをまとめていただいた
福井さんの功績は計り知れないほどです。
選手、自らが考える。
新人であろうと関係なく、皆がチームのために意見を出せる空間。
そして皆で実践する。
試合に向けての考え、そして狙いをメンバーで共有する。
そこにはまさしく
「自分達で作るフットボール」
がありました。
その中心にいたのが福井さんでした。
Xリーグの1部のチームは、コーチがたくさんいるようなチームばかり。
ある意味、当時のブルーインズの一部昇格の目標は、
「選手主体のチームがどこまで通用するのか」
というチャレンジでもあったように思えます。
そんなチャレンジが楽しくて楽しくて仕方がなかった。
振り返っても思わず、胸が熱くなりますね。
さて、前年、成し遂げれなかった
「一部昇格」
この年の対戦相手は、今でも一部リーグで存在感を発揮する
アズワンブラックイーグルス
ブルーインズがチカラをつけたと言えど、
まだまだ格上の相手。
だが、昨年の入れ替え戦で1部のチームの尻尾を掴んだことで自信をつけた
ブルーインズはひるみませんでした。
1年間の思いを全てぶつけ、
最終クオーターの残り数分まではリードしてました。
しかし・・。
最後の最後で地力の差を見せつけられて逆転負け。
悔しくて涙しました。
後に振り返って思ったのが、
社会人でフットボールを続け、涙を流せるほどに一生懸命に
打ち込めることがあるのは本当に幸せなことだって。
厳しい現実を突きつけられたブルーインズ。
でも、負けた現実を受け止めるのに必死で何も考えることが出来なかったけど、
時間が経つに連れて、
「3度目の正直」
を皆で目指す決意が固まってきました。
シーズンが終わって、新たな年が始まり、
思わぬ出来事を機に、
ブルーインズが一部に昇格する報を受けることに。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
第十回 【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
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前回の記事でも書いたように、
当時、ほんと仕事に対して意識が低かったせいもあり、2000年代の前半は
仕事を振り返ってもなかなか思い起こせないんですよね。
一方で、フットボールに関しては、
印象に残ってることが多いのがこの時期です。
前年、躍進を遂げた阪急ブルーインズ。
メンバーのモチベーションも高く、シーズンを迎えるまでのオフシーズンから、
皆の意識の中には、
「入れ替え戦の勝利」
という誰も異論を挟むことのない、絶対的な目標が共有されてました。
目標を共にする。
ということはとてつもないパワーを発揮する。
そう感じるシーズンでもありました。
昨年、一気にリーグ優勝まで上り詰めたのですが、
このシーズンは同リーグのチームは
「打倒阪急」
で挑んできました。
ただ、そんな果敢な挑戦も、
当日のブルーインズのモチベーションの高さ、そして
チーム力の向上が上回り、見事に返り討ちにして勝利を重ねていきました。
どの試合も僅差をものにして勝利したかと思います。
本当にチカラをつけつつあったのがこのシーズンだったと思います。
さて、当時のブルーインズを語るにおいて、
忘れてはならない人がいます。
昨年までのヘッドコーチ(今季はまだ未定)
福井 健司さんの存在。
当時、ブルーインズにはコーチと呼ばれる存在がほぼいない状況でした。
そんな中、プレイングマネージャー的存在として、チームをまとめていただいた
福井さんの功績は計り知れないほどです。
選手、自らが考える。
新人であろうと関係なく、皆がチームのために意見を出せる空間。
そして皆で実践する。
試合に向けての考え、そして狙いをメンバーで共有する。
そこにはまさしく
「自分達で作るフットボール」
がありました。
その中心にいたのが福井さんでした。
Xリーグの1部のチームは、コーチがたくさんいるようなチームばかり。
ある意味、当時のブルーインズの一部昇格の目標は、
「選手主体のチームがどこまで通用するのか」
というチャレンジでもあったように思えます。
そんなチャレンジが楽しくて楽しくて仕方がなかった。
振り返っても思わず、胸が熱くなりますね。
さて、前年、成し遂げれなかった
「一部昇格」
この年の対戦相手は、今でも一部リーグで存在感を発揮する
アズワンブラックイーグルス
ブルーインズがチカラをつけたと言えど、
まだまだ格上の相手。
だが、昨年の入れ替え戦で1部のチームの尻尾を掴んだことで自信をつけた
ブルーインズはひるみませんでした。
1年間の思いを全てぶつけ、
最終クオーターの残り数分まではリードしてました。
しかし・・。
最後の最後で地力の差を見せつけられて逆転負け。
悔しくて涙しました。
後に振り返って思ったのが、
社会人でフットボールを続け、涙を流せるほどに一生懸命に
打ち込めることがあるのは本当に幸せなことだって。
厳しい現実を突きつけられたブルーインズ。
でも、負けた現実を受け止めるのに必死で何も考えることが出来なかったけど、
時間が経つに連れて、
「3度目の正直」
を皆で目指す決意が固まってきました。
シーズンが終わって、新たな年が始まり、
思わぬ出来事を機に、
ブルーインズが一部に昇格する報を受けることに。
社会人生活の振り返り⑩【意識の低い宝石屋の二代目(2001~2005)】
2015年02月18日
あれよのままに10回目を迎えました。
こんなに長くなるとは予想外です(笑)
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
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少しづつ、仕事にも馴れていき、営業も独り立ちできるようになりました。
でも「営業」という名の「御用聞き」ですね。
宝飾業界の大きな特徴として、
「委託販売」
が挙げられます。
我々のように商品を作る、製造卸は、
実際、販売のフロントとなる、小売店に対して、
商品を貸し出すのです。
そして、それがユーザーに対して売れて初めて納品と言う形で
売上となるのです。
小売店の立場からすれば、
お客さまの要望に耳を傾けて、
自社の在庫になければ卸問屋各社に商品を問い合わせを
して取り寄せて商売をすることが多いんです。
また小売店の販売員とお客さまは密接な人間関係で成り立ってることが多く、
「何を買うかよりも誰から買うか」
商品の特性上、そういった傾向が顕著な業界でもあります。
一方、お客さまからすれば信頼できる販売員の提案を
とても受け入れる傾向があるんですよね。
つまり裏を返せば、販売員は自分の好きな商品をおススメできるわけです。
そこからが面白いところで、
先の委託販売の性質上、
売れる販売員にはたくさんの商品が集まるわけです。
そして売れる販売員も人間ですから、
商品の良し悪しに加えて、卸問屋の担当との人間関係が絡んで、
「この問屋の商品を売りたい」
そんな意向が働いてくるんですよね。
もしかしたらどの業界でも、そういった人間関係の濃さが
影響してくるのは必然なことかもしれませんが・・。
そんなわけで、結構人間関係を築くのに苦労を重ね、
そして理不尽な思いをすることもありました。
またお店がセールなどのイベントをするときには
まとまった商品を貸し出しをしたりします。
そのセール期間が終わった後に商品を返却回収するのですが、
その回収の際に貸し出した数と同数が返却される。
いわば、商品が売れてないことを示しており、
我々の業界では
「ボウズ」
と称したりもしますが、そんなことも多々ありました。
ちょっと説明が長くなりましたが、
非常に
「他力本願」
的な要素が強い商売の仕組みであったと思います。
また一方で、多くの商品を在庫を持つ必要があるので、
非常に在庫金額も膨れ上がり、リスクの高い商売であることも
特徴だったと思います。
在庫してる金額分を、利回りの高い金融商品に投資してる方が
ええんちゃうのって思ってしまうようなビジネスモデルでもあります。
今となってはこうやって冷静に商売の仕組みを分析できますが、
当時の自分はまったくそんな意識もなかったと思います。
お恥ずかしながら、
会社の損益分岐点であったり、
キャッシュフローであったり、
経費がどれだけかかってるねん
などほとんどがわかっていなかったように思えます。
今、思い起こせば、驚くほどに意識の低い宝石屋の二代目
だったのかなって思います。
よく、父親から
「サラリーマン根性が抜けてない」
そう叱咤されましたが、当時はそんな声も右から左。
後になって父親の言うことがごもっともだと気付くようになるのですが・・
着実に業界は衰退の一途を辿ってました。
それも今、思えばわかること。
当時は、何の危機感もなく、平凡な会社生活を送るのみでした。
それから数年後、とんでもない危機が会社に訪れることを
知る由もなく・・・。
こんなに長くなるとは予想外です(笑)
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
第九回 【ブルーインズの躍進(2000)】
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少しづつ、仕事にも馴れていき、営業も独り立ちできるようになりました。
でも「営業」という名の「御用聞き」ですね。
宝飾業界の大きな特徴として、
「委託販売」
が挙げられます。
我々のように商品を作る、製造卸は、
実際、販売のフロントとなる、小売店に対して、
商品を貸し出すのです。
そして、それがユーザーに対して売れて初めて納品と言う形で
売上となるのです。
小売店の立場からすれば、
お客さまの要望に耳を傾けて、
自社の在庫になければ卸問屋各社に商品を問い合わせを
して取り寄せて商売をすることが多いんです。
また小売店の販売員とお客さまは密接な人間関係で成り立ってることが多く、
「何を買うかよりも誰から買うか」
商品の特性上、そういった傾向が顕著な業界でもあります。
一方、お客さまからすれば信頼できる販売員の提案を
とても受け入れる傾向があるんですよね。
つまり裏を返せば、販売員は自分の好きな商品をおススメできるわけです。
そこからが面白いところで、
先の委託販売の性質上、
売れる販売員にはたくさんの商品が集まるわけです。
そして売れる販売員も人間ですから、
商品の良し悪しに加えて、卸問屋の担当との人間関係が絡んで、
「この問屋の商品を売りたい」
そんな意向が働いてくるんですよね。
もしかしたらどの業界でも、そういった人間関係の濃さが
影響してくるのは必然なことかもしれませんが・・。
そんなわけで、結構人間関係を築くのに苦労を重ね、
そして理不尽な思いをすることもありました。
またお店がセールなどのイベントをするときには
まとまった商品を貸し出しをしたりします。
そのセール期間が終わった後に商品を返却回収するのですが、
その回収の際に貸し出した数と同数が返却される。
いわば、商品が売れてないことを示しており、
我々の業界では
「ボウズ」
と称したりもしますが、そんなことも多々ありました。
ちょっと説明が長くなりましたが、
非常に
「他力本願」
的な要素が強い商売の仕組みであったと思います。
また一方で、多くの商品を在庫を持つ必要があるので、
非常に在庫金額も膨れ上がり、リスクの高い商売であることも
特徴だったと思います。
在庫してる金額分を、利回りの高い金融商品に投資してる方が
ええんちゃうのって思ってしまうようなビジネスモデルでもあります。
今となってはこうやって冷静に商売の仕組みを分析できますが、
当時の自分はまったくそんな意識もなかったと思います。
お恥ずかしながら、
会社の損益分岐点であったり、
キャッシュフローであったり、
経費がどれだけかかってるねん
などほとんどがわかっていなかったように思えます。
今、思い起こせば、驚くほどに意識の低い宝石屋の二代目
だったのかなって思います。
よく、父親から
「サラリーマン根性が抜けてない」
そう叱咤されましたが、当時はそんな声も右から左。
後になって父親の言うことがごもっともだと気付くようになるのですが・・
着実に業界は衰退の一途を辿ってました。
それも今、思えばわかること。
当時は、何の危機感もなく、平凡な会社生活を送るのみでした。
それから数年後、とんでもない危機が会社に訪れることを
知る由もなく・・・。
社会人生活の振り返り⑨【ブルーインズの躍進(2000)】
2015年02月17日
今日はフットボールの話です。
どうぞよろしくお願いします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
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さて、話をプライベートに戻したいと思います。
いったりきたりでスイマセン・・・。
僕が家業に入った2000年。
阪急ブルーインズは躍進を遂げる年となりました。
前年は2部リーグで4位。
そのチームが、一気にリーグ優勝まで辿りついたわけです。
内外電機マーヴィーズ
千趣会フューチャーズ
そして、今でも凌ぎを削るライバル
名古屋サイクロンズ
なかなかチームとして越せない壁を
あれよあれよのままに撃破していった年です。
チームの戦力は徐々に充実していったものの、
まだまだリーグ優勝をイメージはまったく出来てなかったけど、
一戦一戦を経るごとに、チームの、そして選手個々のモチベーションは
最高潮にあがっていきました。
「チームの勢い」をまさしく感じる年となりました。
個人的にも家業に入った年。
本来なら死に物狂いで仕事を学ぶべき年だったかもしれませんが、
きっちり定時に退社、週の大半をスポーツジムに通い
トレーニングしてた記憶があります。
会社でもそっと人の目を盗んでは相手チームの分析をしてたことも
今となっては白状できますね(笑)
父親も後にアメフトとの両立について言及することもありましたが、
基本的には寛容で自由にやらせてくれました。
こぼれ話として、父親は関西学院のOB。アメフトのOBではないですが、
今でもシーズンになると関学ファイターズそしてNFLの動向には目を光らせてます。
そんなファイターズファンの父親にとって、関学を日本一に牽引した、
そして後にブルーインズの大黒柱となるランニングバック井岡 淳。
その井岡と息子が一緒のチームでアメフトをしてるということが、
親父としても非現実的で嬉しかったんだと思います(笑)
もう少し息子の母校、カイザースにも興味を示してくれよ・・(笑)
さて、話は戻り、あれよあれよままに二部でリーグ優勝。
となると、想像だにしなかった「入れ替え戦」の切符を手に入れたわけです。
相手はイワタニサイドワインダーズ。
奇しくも入社当時、友人に誘われたというのがこのチーム。
1部リーグのイワタニよりも2部リーグの阪急の方がアットホームで
楽しくフットボールができそう。
前述の平山先輩のお誘いもあって阪急に入部しましたが、
まさかこうやって雲の上のチームと対戦するなんて夢にも思ってませんでした。
正直、2部リーグの相手とはレベルが違う・・。
試合が始まって純粋にそう思いました。
でも、勢いがあって、怖いものなしのブルーインズは果敢にくらいついていきました。
また個人的に、その試合は本当に楽しかった思い出があります。
サイドワインダーズへの入部を誘ってくれた大学からの親友、岡谷謙三が
相手チームのオフェンスライン。
ラインバッカーである僕の目の前に位置するポジションにいたんです。
学生時代から速いし、強いし、上手い選手だったので、それは
コテンパンにやられたけど、
不思議と毎プレー、毎プレー、そんな仲間に挑んでいくのが本当に楽しかったです。
結果は僅差で敗北。
でも、阪急よくやった!!
周囲の評価はそんな感じでした。
何よりチームに関わるメンバーすべてが、
「来年こそは!」
そんな自信と希望に満ち溢れたシーズンになりました。
翌年のシーズンも思い出に残るシーズンになったので、
書きたいところですが、ちょっと長くなったので次の機会に。
どうぞよろしくお願いします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
第八回 【越野宝商に入社(2000~2001)】
=======================================================================
さて、話をプライベートに戻したいと思います。
いったりきたりでスイマセン・・・。
僕が家業に入った2000年。
阪急ブルーインズは躍進を遂げる年となりました。
前年は2部リーグで4位。
そのチームが、一気にリーグ優勝まで辿りついたわけです。
内外電機マーヴィーズ
千趣会フューチャーズ
そして、今でも凌ぎを削るライバル
名古屋サイクロンズ
なかなかチームとして越せない壁を
あれよあれよのままに撃破していった年です。
チームの戦力は徐々に充実していったものの、
まだまだリーグ優勝をイメージはまったく出来てなかったけど、
一戦一戦を経るごとに、チームの、そして選手個々のモチベーションは
最高潮にあがっていきました。
「チームの勢い」をまさしく感じる年となりました。
個人的にも家業に入った年。
本来なら死に物狂いで仕事を学ぶべき年だったかもしれませんが、
きっちり定時に退社、週の大半をスポーツジムに通い
トレーニングしてた記憶があります。
会社でもそっと人の目を盗んでは相手チームの分析をしてたことも
今となっては白状できますね(笑)
父親も後にアメフトとの両立について言及することもありましたが、
基本的には寛容で自由にやらせてくれました。
こぼれ話として、父親は関西学院のOB。アメフトのOBではないですが、
今でもシーズンになると関学ファイターズそしてNFLの動向には目を光らせてます。
そんなファイターズファンの父親にとって、関学を日本一に牽引した、
そして後にブルーインズの大黒柱となるランニングバック井岡 淳。
その井岡と息子が一緒のチームでアメフトをしてるということが、
親父としても非現実的で嬉しかったんだと思います(笑)
もう少し息子の母校、カイザースにも興味を示してくれよ・・(笑)
さて、話は戻り、あれよあれよままに二部でリーグ優勝。
となると、想像だにしなかった「入れ替え戦」の切符を手に入れたわけです。
相手はイワタニサイドワインダーズ。
奇しくも入社当時、友人に誘われたというのがこのチーム。
1部リーグのイワタニよりも2部リーグの阪急の方がアットホームで
楽しくフットボールができそう。
前述の平山先輩のお誘いもあって阪急に入部しましたが、
まさかこうやって雲の上のチームと対戦するなんて夢にも思ってませんでした。
正直、2部リーグの相手とはレベルが違う・・。
試合が始まって純粋にそう思いました。
でも、勢いがあって、怖いものなしのブルーインズは果敢にくらいついていきました。
また個人的に、その試合は本当に楽しかった思い出があります。
サイドワインダーズへの入部を誘ってくれた大学からの親友、岡谷謙三が
相手チームのオフェンスライン。
ラインバッカーである僕の目の前に位置するポジションにいたんです。
学生時代から速いし、強いし、上手い選手だったので、それは
コテンパンにやられたけど、
不思議と毎プレー、毎プレー、そんな仲間に挑んでいくのが本当に楽しかったです。
結果は僅差で敗北。
でも、阪急よくやった!!
周囲の評価はそんな感じでした。
何よりチームに関わるメンバーすべてが、
「来年こそは!」
そんな自信と希望に満ち溢れたシーズンになりました。
翌年のシーズンも思い出に残るシーズンになったので、
書きたいところですが、ちょっと長くなったので次の機会に。
社会人生活の振り返り⑧【越野宝商に入社(2000~2001)】
2015年02月16日
今週も、できるだけ・・・。
がんばって更新します!どうぞよろしくお願いいたします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
=======================================================================
さてと、勤めていた会社を退職し、
家業に戻ってきました。
僕の生まれ育った町。島本町。
大阪の外れのちいさな町。
そこが再び生活の拠点となりました。
週末になると、よく帰ってたのですが、こうやって改めて、暮らすとなると、
「やっぱ落ち着くなあ~」
そう思ったりしました。
会社のある大阪・南船場までは約50分の電車通勤。
これもまた学生時代に慣れ親しんだ、阪急京都線。
とても感慨深く感じたような気がします。
会社は、当時、
社長である父親。
そして番頭さん。事務のおばさんの3名体制。
とは言っても、その番頭さんも事務のおばさんも、
家族みたいなもので、僕の赤ん坊の時から知ってるような方。
「やっくん、やっくん」
と昔から可愛がってもらってたので、自分が今、二十歳を超えて、
家業に戻ってきて、そのお2人と一緒に仕事をするというのがウソのようにも思えました。
当時の「越野 宝商」の仕事の内容を振り返ると、
・ ルビーやサファイヤなどの色石(カラーストーン)と言われる製品を作って
宝石の専門店やデパートに販売する仕事。
・ 時計のシチズンの宝飾会社があり、そちらの代理店として、シチズンの結婚指輪や
婚約指輪を同じく宝石の専門店やデパートに販売する仕事
・ シチズンが主催する宝石の展示会があり、その展示会に得意先に参加していただき
エンドユーザーさんを勧誘していただくフォローの仕事。
そんな感じでした。
宝飾の卸の仕事になりますね。
右も左もわからずに飛び込んだ、この業界。
最初は、ルーペの扱い方から教えてもらいました。
ルーペってご存知ですか?
虫メガネのもっと小さいやつで、石をジーと見つめるシーンは思い起こせるかと思います。
あとは短期の宝石の学校のようなものにも通わせてもらいました。
そこで石の判別の方法だったり、宝石の基本を学びました。
でもあとから考えたら座学よりも、実際に商売をする過程で学んだことの方が
よっぽど身についたような気がします。
学校の講師の先生すみません。
宝石の勉強と並行して、
番頭さんに連れられてお得意先さま周りをしました。
多くのお客様は、
「越野さんの息子さん」
ということで、普通の会社の新入社員とは違った形で、
スムーズに受け入れていただきました。
中には僕のちいさい頃から知っていただいてる方もいます。
その中で、よく言われたのは
母親の葬儀の時のこと。
僕が20歳の冬に母親は病気で他界しました。
その時の葬儀には多くの得意先の方が参列してくださいました。
2月の相当寒い日柄だったこと。
そして僕の学生時代のアメリカンフットボールの先輩、後輩、そして同僚が
たくさん来ていたことが、
ご参列いただいた方にとてもインパクトがあったようです。
体が大きい!っていうジェスチャーをしながら、
「あのお母さんのお葬式のときは寒かったなあ~、そして、大きな身体した
お友達がたくさん来てたよね」
って感じのお声を多くの方からかけていただきました。
ちょっと余談になりましたが、
これから商売をするというより、
今に至る生い立ちをお客さまにお話させていただくことから、
越野宝商でのスタートが始まったように思えます。
こういう恵まれた環境にあったので、
特にストレスを感じることもなく、新たら生活がスタートしました。
何より、新鮮だったのが、
・ 会社がオフィス街で、ランチ頃になると街頭で弁当売りがたくさん出店されてること。
・ 見事に定時にさようなら。17時半だったかな・・。
・ 帰りに梅田や心斎橋でブラブラできること。
なんてお気軽なんだ・・・。
そんな感じの、家業でのスタートです。
がんばって更新します!どうぞよろしくお願いいたします。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
第六回 【西へ・・(1999)】
第七回 【決断~リスタート(2000)】
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さてと、勤めていた会社を退職し、
家業に戻ってきました。
僕の生まれ育った町。島本町。
大阪の外れのちいさな町。
そこが再び生活の拠点となりました。
週末になると、よく帰ってたのですが、こうやって改めて、暮らすとなると、
「やっぱ落ち着くなあ~」
そう思ったりしました。
会社のある大阪・南船場までは約50分の電車通勤。
これもまた学生時代に慣れ親しんだ、阪急京都線。
とても感慨深く感じたような気がします。
会社は、当時、
社長である父親。
そして番頭さん。事務のおばさんの3名体制。
とは言っても、その番頭さんも事務のおばさんも、
家族みたいなもので、僕の赤ん坊の時から知ってるような方。
「やっくん、やっくん」
と昔から可愛がってもらってたので、自分が今、二十歳を超えて、
家業に戻ってきて、そのお2人と一緒に仕事をするというのがウソのようにも思えました。
当時の「越野 宝商」の仕事の内容を振り返ると、
・ ルビーやサファイヤなどの色石(カラーストーン)と言われる製品を作って
宝石の専門店やデパートに販売する仕事。
・ 時計のシチズンの宝飾会社があり、そちらの代理店として、シチズンの結婚指輪や
婚約指輪を同じく宝石の専門店やデパートに販売する仕事
・ シチズンが主催する宝石の展示会があり、その展示会に得意先に参加していただき
エンドユーザーさんを勧誘していただくフォローの仕事。
そんな感じでした。
宝飾の卸の仕事になりますね。
右も左もわからずに飛び込んだ、この業界。
最初は、ルーペの扱い方から教えてもらいました。
ルーペってご存知ですか?
虫メガネのもっと小さいやつで、石をジーと見つめるシーンは思い起こせるかと思います。
あとは短期の宝石の学校のようなものにも通わせてもらいました。
そこで石の判別の方法だったり、宝石の基本を学びました。
でもあとから考えたら座学よりも、実際に商売をする過程で学んだことの方が
よっぽど身についたような気がします。
学校の講師の先生すみません。
宝石の勉強と並行して、
番頭さんに連れられてお得意先さま周りをしました。
多くのお客様は、
「越野さんの息子さん」
ということで、普通の会社の新入社員とは違った形で、
スムーズに受け入れていただきました。
中には僕のちいさい頃から知っていただいてる方もいます。
その中で、よく言われたのは
母親の葬儀の時のこと。
僕が20歳の冬に母親は病気で他界しました。
その時の葬儀には多くの得意先の方が参列してくださいました。
2月の相当寒い日柄だったこと。
そして僕の学生時代のアメリカンフットボールの先輩、後輩、そして同僚が
たくさん来ていたことが、
ご参列いただいた方にとてもインパクトがあったようです。
体が大きい!っていうジェスチャーをしながら、
「あのお母さんのお葬式のときは寒かったなあ~、そして、大きな身体した
お友達がたくさん来てたよね」
って感じのお声を多くの方からかけていただきました。
ちょっと余談になりましたが、
これから商売をするというより、
今に至る生い立ちをお客さまにお話させていただくことから、
越野宝商でのスタートが始まったように思えます。
こういう恵まれた環境にあったので、
特にストレスを感じることもなく、新たら生活がスタートしました。
何より、新鮮だったのが、
・ 会社がオフィス街で、ランチ頃になると街頭で弁当売りがたくさん出店されてること。
・ 見事に定時にさようなら。17時半だったかな・・。
・ 帰りに梅田や心斎橋でブラブラできること。
なんてお気軽なんだ・・・。
そんな感じの、家業でのスタートです。
社会人生活の振り返り⑥【西へ・・・(1999)】
2015年02月13日
今日も元気に更新です!!
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
=======================================================================
良くも悪くも要領を得て、
上手にサボりつつ、手を抜きつつ、営業の生活を過ごしてました。
もちろん、神戸の海を眺めながら昼寝するのは定番行事。
ホントに今、思うと、
「仕事のための仕事」
ってのが多かったなあ~って気がします。
報告書のたぐいのオンパレード。
新規顧客の進捗状況?
勝手にストーリーを作って報告することも。
結びの文章は、
「先方担当者が取引を検討中」
この言葉で結べば何でもオッケー!笑
営業という数字の世界に飛び込んでも、
実際、どれだけ自分が売上を作って、どれだけ利益を生み出して、
会社に貢献できたか。
そんな感覚はこれっぽっちもなく。
今、居る世界は売上、いや利益が自分の生活に直結していく世界。
だから当時の感覚ってのが思い出そうにも思い出せない・・。
何も考えず、ただ与えられたことをすることに全力疾走してたのかもしれません。
記憶が定かではないけど、
営業を始めて1年ぐらいたったとある日。
上司から呼び出されて、異動を告げられる。
行き先は、
同じ神戸支店管轄の
「加古川営業所」
おいおい、昼寝の常習犯へのお仕置きか・・・。(加古川営業所の方すいません・・)
わずか3人ほどで運営される、ちいさなちいさな営業所。
「えっ、加古川!!?」
思わず口に出てしまうほどの衝撃。
真意のほどは今となってもわかりませんが、
上司曰く、
神戸の西地区~姫路には大きい企業が立地していて、
今後、営業戦略の重点地域になるから。
いわば、「抜擢」なんて都合のよい言葉を使われたけど、おかしい。
たいして数字も成果もあげてない平凡な営業マンに
「抜擢」はないやろ。
そう心の中でつぶやきながら、家路に着いたことを今でも忘れません。
西宮の寮から、阪急電車に乗って三宮まで、JRに乗り換え、東加古川駅。
そして恐るべきことにそこから徒歩で20分ぐらい歩いた加古川バイバス沿いに
事務所がありました。
往復 3時間半ほどの生活が始まりました。
楽しみは営業中に
「もっこすラーメン」
を食べることぐらい。
事務所を移っても、夜遅くまで働く風土には変わりなし。
これは社風なのなか・・。
でも、残念ながら、終電のことを考えると、
事務所を22:30ぐらいには出ないと間に合わなかったはず。
もちろん寮に戻るのは日付をまたぐ。
あの1年はキツかった。
今でもそう思います。
おかげで播但地区と言われる地域の土地勘は強くなりましたけどね。
西は遠く赤穂、北は中国道が通う山崎町まで。
来る日も来る日もロングドライブ!!
「ポプラ」というコンビニによくお世話になりました。
おかげさまで、M電機さん含め、U電機さんなど、大きい企業の担当をさせて
もらい、それはええ勉強になったのもこの1年間。
でも、いつの間にか、
「海外で働きたい」
そんな入社当時の夢も考えなくなり、
漫然と働く日々に疑問を感じるように。
平日はプライベートもなく、唯一の楽しみは週末のフットボール。
ふと、心の中で、
「会社辞めようかな・・・」
そう思った瞬間から、日々思いは強くなっていくもの。
大きな決断が近づいてきました。
今日はこんなところで。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
第五回 【上昇気流(1998~1999)】
=======================================================================
良くも悪くも要領を得て、
上手にサボりつつ、手を抜きつつ、営業の生活を過ごしてました。
もちろん、神戸の海を眺めながら昼寝するのは定番行事。
ホントに今、思うと、
「仕事のための仕事」
ってのが多かったなあ~って気がします。
報告書のたぐいのオンパレード。
新規顧客の進捗状況?
勝手にストーリーを作って報告することも。
結びの文章は、
「先方担当者が取引を検討中」
この言葉で結べば何でもオッケー!笑
営業という数字の世界に飛び込んでも、
実際、どれだけ自分が売上を作って、どれだけ利益を生み出して、
会社に貢献できたか。
そんな感覚はこれっぽっちもなく。
今、居る世界は売上、いや利益が自分の生活に直結していく世界。
だから当時の感覚ってのが思い出そうにも思い出せない・・。
何も考えず、ただ与えられたことをすることに全力疾走してたのかもしれません。
記憶が定かではないけど、
営業を始めて1年ぐらいたったとある日。
上司から呼び出されて、異動を告げられる。
行き先は、
同じ神戸支店管轄の
「加古川営業所」
おいおい、昼寝の常習犯へのお仕置きか・・・。(加古川営業所の方すいません・・)
わずか3人ほどで運営される、ちいさなちいさな営業所。
「えっ、加古川!!?」
思わず口に出てしまうほどの衝撃。
真意のほどは今となってもわかりませんが、
上司曰く、
神戸の西地区~姫路には大きい企業が立地していて、
今後、営業戦略の重点地域になるから。
いわば、「抜擢」なんて都合のよい言葉を使われたけど、おかしい。
たいして数字も成果もあげてない平凡な営業マンに
「抜擢」はないやろ。
そう心の中でつぶやきながら、家路に着いたことを今でも忘れません。
西宮の寮から、阪急電車に乗って三宮まで、JRに乗り換え、東加古川駅。
そして恐るべきことにそこから徒歩で20分ぐらい歩いた加古川バイバス沿いに
事務所がありました。
往復 3時間半ほどの生活が始まりました。
楽しみは営業中に
「もっこすラーメン」
を食べることぐらい。
事務所を移っても、夜遅くまで働く風土には変わりなし。
これは社風なのなか・・。
でも、残念ながら、終電のことを考えると、
事務所を22:30ぐらいには出ないと間に合わなかったはず。
もちろん寮に戻るのは日付をまたぐ。
あの1年はキツかった。
今でもそう思います。
おかげで播但地区と言われる地域の土地勘は強くなりましたけどね。
西は遠く赤穂、北は中国道が通う山崎町まで。
来る日も来る日もロングドライブ!!
「ポプラ」というコンビニによくお世話になりました。
おかげさまで、M電機さん含め、U電機さんなど、大きい企業の担当をさせて
もらい、それはええ勉強になったのもこの1年間。
でも、いつの間にか、
「海外で働きたい」
そんな入社当時の夢も考えなくなり、
漫然と働く日々に疑問を感じるように。
平日はプライベートもなく、唯一の楽しみは週末のフットボール。
ふと、心の中で、
「会社辞めようかな・・・」
そう思った瞬間から、日々思いは強くなっていくもの。
大きな決断が近づいてきました。
今日はこんなところで。
社会人生活の振り返り⑤【上昇気流(1998~1999)】
2015年02月12日
あれよあれよと五回目に。
引き続きよろしくお願いします!!
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
第三回 【阪急ブルーインズとの出会い】
第四回 【人事異動(1998)】
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がむしゃらに営業に走る毎日。
でも、それは今、思うと
「営業」
と呼べるほどのものでなく、
単なる、お客さまの「御用聞き」程度のものだったと思います。
自分の会社のストロングポイント
だったりとか、
よく言われる「自分の強み」
そんな風に分析さえ行わずに、
ひたすらお客さまのところに通って、
頭を下げる、
いわば「お願い営業」。
まあ、それはそれで当時においては仕方なかったのかもだけど、
もし今、同じ営業を今の自分がするとしたら、
もっと色んな工夫ができるような気がします。
これは「たられば」って言うんでしょうね(笑)
仕事は内勤時代とはうってかわって多忙を極めつつあったけど、
そんな生活の中での楽しみが、
週末の遊びとフットボール。
同じ寮に住んでた、同期の竹内 剛と石塚 康一郎。
その2人とは本当によく遊んだ思い出があります。
剛にいたってはブルーインズの同期でもあったので、
本当に兄弟のように行動してたような気がします。
夏なんかは、深夜に車で寮を出て、
海に遊びに行き、
精一杯遊んだ後、昼すぎには海を後にして、
夕方からフットボールの練習。
今、思うととてつもない体力、そしてバイタリティがあったように思えます。
また、その頃には、剛の学生時代からの後輩であり子分的な向 和久が
ボクと同じ支店に配属され、そしてブルーインズにも加入。
後にチームを引っ張る彼を含めて有望な新人が多数加入。
まだまだ、上のリーグを目指すには程遠かったものの、
どこか可能性を感じるチームになりつつあったのもちょうどその頃だったと思います。
仕事もプライベートも順調そのものに思えましたが・・。
昔で言うと、
「そうは問屋が卸さない・・・」(笑)
ボクに試練が待ち受けてました・・・。
今日はこのへんで。
社会人生活の振り返り② 【直心寮(1997~1999)】
2015年02月07日
社会人の振り返り。
第一回を更新したところ、思わぬ反響をいただいたんで、
二回目以降を更新するモチベーションになります(笑)
引き続き徒然なるままに・・・
今日は第二回です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
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パソコンがまったく使えない・・・。
そんな前途多難の中、始まった社会人生活。
日々の仕事はひたすらパソコンと向かい合って
通関書類の作成。
そして税関検査の立会い。
不思議なもので、毎日、多くの時間をパソコンと向き合ってると
タイピングも早くなっていくものですね。
今、こうやって高速で話をするかのようにブラインドタッチでスムーズに
タイピングできてるのはこの新入社員時代の学びの恩恵といっても過言ではありません。
先輩社員に恵まれ・・・。
いや、確かに恵まれていたのですが、唯一厄介な存在が・・。今だから暴露できますが・・。
U係長。
酔拳を使う猛者!
冗談はほどほどに。
まさしく、あれは「アルコール中毒」だったんだと思います。
顔を赤らめて仕事をしてることしばし。
よく上司に注意を受けたこともあったのですが、上司も注意しきれない理由があって。
仕事が出来るんですよね。
あの人に救われた通関業務、数知れずだったと思います。当時は。
グッと我慢し、そのU係長に仕えていたのですが、
一度だけオフィスでキレたことが。
「酔っ払って仕事する人と一緒にできませんよ!!」って。
思わずシーンとなりましたね。
本来、そんなことがあれば、とんでもない仕打ちを受けそうなんですが、
想像に反して、結構、U係長から好かれていたようです(笑)
後で出てくる寮に晩方、いきなり酔っ払った姿で現れたときは驚愕でした。
そんな人間関係を抱えながら、送った新入社員時代。
幸いにも通関業務というのは税関あってのお仕事なので、ある程度
時間が決まってました。
そのため、比較的早い時間に仕事を終え帰路につく日が多かったように思えます。
そして、実家(島本町という大阪のはずれ)と六甲アイランド。
ちょっと通勤がしんどい・・
ということもあって、会社の寮に入ることになりました。
西宮。阪神競馬場の近くですね。
「直心寮」
と言われる会社の寮がありました。
よく、「まごころ寮」なんていわれることがありましたが、
違います、よく見てください。
「じきしんりょう」
と呼びます。
そこはまさしく昭和な雰囲気で、
寮母さんがおられ、いつも美味しい料理を食べさせてくださいました。
ボリューム満点の料理は食べ盛り?の僕にとっては最高のものでした。
そこで生活を共にし、生涯の親友とも思える2人との出会いがありました。
竹内 剛
石塚 康一郎
あとでこのサラリーマン生活を振り返ったとき、この会社で得たもの
で一番大きかったのはこの2人を含めた仲間だと今でも思ってます。
学生の延長のようなノリでアホなことをいっぱいしました。
アメリカに一緒に旅行にも行きました。
そして、マジメ君な僕は会社と寮の往復。
寄り道できる環境になかったってのが正直なところですが。
いつも寮の談話室のソファーにふんぞりかえって、
彼らの帰宅を待ってました。
そして、遅くに帰宅した彼らと一緒に、会社であったことや、
プライベートなことを夜遅くまで語らう日も少なくありませんでした。
気づけば、揃ってうたたねをしてたこともしばし。
同期の2人以外にも、
先輩、後輩と過ごす日々は面白おかしく、今思えばすごいよい環境に
いたなあ~って思います。
今は残念ながら、その寮はありません。
一緒にみんなで記念撮影でもしておけば良かったなあ~って思います。
このご時勢。多くの会社が寮などの資産を売却する傾向にありますが、
寮という存在が目には見えない大きな価値を生み出す場所で
あるということを訴えたいですね。
今日はこんな感じ。
次回は僕のその後、20年近く関わることになる、
「ブルーインズとの出会い」
について。
第一回を更新したところ、思わぬ反響をいただいたんで、
二回目以降を更新するモチベーションになります(笑)
引き続き徒然なるままに・・・
今日は第二回です。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
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パソコンがまったく使えない・・・。
そんな前途多難の中、始まった社会人生活。
日々の仕事はひたすらパソコンと向かい合って
通関書類の作成。
そして税関検査の立会い。
不思議なもので、毎日、多くの時間をパソコンと向き合ってると
タイピングも早くなっていくものですね。
今、こうやって高速で話をするかのようにブラインドタッチでスムーズに
タイピングできてるのはこの新入社員時代の学びの恩恵といっても過言ではありません。
先輩社員に恵まれ・・・。
いや、確かに恵まれていたのですが、唯一厄介な存在が・・。今だから暴露できますが・・。
U係長。
酔拳を使う猛者!
冗談はほどほどに。
まさしく、あれは「アルコール中毒」だったんだと思います。
顔を赤らめて仕事をしてることしばし。
よく上司に注意を受けたこともあったのですが、上司も注意しきれない理由があって。
仕事が出来るんですよね。
あの人に救われた通関業務、数知れずだったと思います。当時は。
グッと我慢し、そのU係長に仕えていたのですが、
一度だけオフィスでキレたことが。
「酔っ払って仕事する人と一緒にできませんよ!!」って。
思わずシーンとなりましたね。
本来、そんなことがあれば、とんでもない仕打ちを受けそうなんですが、
想像に反して、結構、U係長から好かれていたようです(笑)
後で出てくる寮に晩方、いきなり酔っ払った姿で現れたときは驚愕でした。
そんな人間関係を抱えながら、送った新入社員時代。
幸いにも通関業務というのは税関あってのお仕事なので、ある程度
時間が決まってました。
そのため、比較的早い時間に仕事を終え帰路につく日が多かったように思えます。
そして、実家(島本町という大阪のはずれ)と六甲アイランド。
ちょっと通勤がしんどい・・
ということもあって、会社の寮に入ることになりました。
西宮。阪神競馬場の近くですね。
「直心寮」
と言われる会社の寮がありました。
よく、「まごころ寮」なんていわれることがありましたが、
違います、よく見てください。
「じきしんりょう」
と呼びます。
そこはまさしく昭和な雰囲気で、
寮母さんがおられ、いつも美味しい料理を食べさせてくださいました。
ボリューム満点の料理は食べ盛り?の僕にとっては最高のものでした。
そこで生活を共にし、生涯の親友とも思える2人との出会いがありました。
竹内 剛
石塚 康一郎
あとでこのサラリーマン生活を振り返ったとき、この会社で得たもの
で一番大きかったのはこの2人を含めた仲間だと今でも思ってます。
学生の延長のようなノリでアホなことをいっぱいしました。
アメリカに一緒に旅行にも行きました。
そして、マジメ君な僕は会社と寮の往復。
寄り道できる環境になかったってのが正直なところですが。
いつも寮の談話室のソファーにふんぞりかえって、
彼らの帰宅を待ってました。
そして、遅くに帰宅した彼らと一緒に、会社であったことや、
プライベートなことを夜遅くまで語らう日も少なくありませんでした。
気づけば、揃ってうたたねをしてたこともしばし。
同期の2人以外にも、
先輩、後輩と過ごす日々は面白おかしく、今思えばすごいよい環境に
いたなあ~って思います。
今は残念ながら、その寮はありません。
一緒にみんなで記念撮影でもしておけば良かったなあ~って思います。
このご時勢。多くの会社が寮などの資産を売却する傾向にありますが、
寮という存在が目には見えない大きな価値を生み出す場所で
あるということを訴えたいですね。
今日はこんな感じ。
次回は僕のその後、20年近く関わることになる、
「ブルーインズとの出会い」
について。